ケータイ辞書JLogosロゴ 越智(古代)


奈良県>高取町

 飛鳥期から見える地名。天智天皇6年天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを「小市【おち】岡上陵」に合葬,同日に皇孫大田皇女を陵前の墓に埋葬したと見える(天智紀6年2月戊午条)。すなわち小市岡上陵は皇極(斉明)天皇陵で,その娘間人皇女を合葬し,天智皇女で大海人皇子妃の大田皇女を陵前に葬ったのである。天武天皇8年天皇は「越智」に行幸,後岡本(斉明)天皇陵を拝み奉っている(天武紀8年3月丁亥条)。文武天皇3年「越智・山科二山陵」を営造することが計画され,衣縫王・当麻真人国見・土師宿禰根麻呂・田中朝臣法麻呂・判官4人・主典2人・大工2人が「越智山陵」に派遣されている(続紀文武天皇3年10月甲午・辛丑条)。天平14年「越智山陵」が長さ11丈,幅5丈2尺にわたり崩壊したため,知太政官事鈴鹿王ら10人が雑工を率いて遣わされ,また采女・女嬬らが供奉し,内蔵頭路真人宮守らが種々の献物を山陵に奉っている(続紀天平14年5月癸丑・丙辰・庚申条)。「延喜式」諸陵寮には,「越智崗上陵」として「飛鳥川原宮御宇皇極天皇。在大和国高市郡。兆域東西五町。南北五町。陵戸五烟」と見える。現在の高取町車木に比定される。「万葉集」巻2に「越智の大野」(194)・「越野」(195)が詠まれ,左注の或本には,河島皇子を越智野に葬った時,泊瀬部皇女へ献上した歌と伝えられる。いずれも柿本人麻呂の作という。現在の明日香村越に比定する説もある。「越の菅原」(1341)は当所であるか不明。なお延暦2年に贄田物部首年足は「越智池」を築いた功により外従五位下が与えられたとある(続紀延暦2年4月丙寅条)。坂上系図(続群7下)所引「姓氏録」逸文に,阿智王が応神朝に7姓の漢人らを率いて帰化したとあり,そのうち朱姓は「小市」らの祖とある。天理図書館所蔵の長保元年12月11日東大寺返抄(平遺4579)には「越智高吉」の名がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7398632
最終更新日:2009-03-01




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