ケータイ辞書JLogosロゴ 越智(中世)


奈良県>高取町

 平安末期から見える地名。高市郡のうち。ヲチ。寿永元年6月19日付東大寺御油荘田堵注文(東大寺文書/平遺4030)に「南ヲチニ四人,北ヲチニ六人」とあり,東大寺灯油免田を耕作する田堵らが当地にいたことが知られる。南越智荘。建暦3年と推定される11月3日付藤原為親等連署請文(春日神社文書/鎌遺2044)に「南越智庄」とあり,当荘住人の藤原為親・源家弘・藤原則宗・仲原助高が春日社の兵士役を勤仕している。1枌匐。一乗院門跡領。至徳3年6月9日付一乗院良昭維摩会講師段米催状(岡本文書)に「越智郷〈三丁四反小〉」とあり,一乗院門跡から段米などを賦課された。け枌匐。室町後期から奈良盆地南部の国民越智氏の勢力範囲を越智郷と称するようになった。室町後期の越智郷段銭帳(春日大社文書4)に「越智郷段銭収分在所」とあり,当郷に含まれる地域は越智氏居館を中心に高市郡全域(多武峰付近や南部の山間地を除く)と忍海【おしみ】郡・葛上【かつじよう】郡の東部一帯に及び,現在の橿原【かしはら】市・高取町域を中心に明日香村・大和高田市・新庄町・御所【ごせ】市などの各一部に相当する。「寺社雑事記」文明2年10月5日条に「就平均段銭事,於越智郷者不随寺命」,文明19年4月6日条に「越智郷反銭千三百貫余無沙汰也」と見えるように,郷内では興福寺寺門段銭や門跡段銭が拒否され,越智氏が独自に私段銭を賦課した。越智氏は国民で一乗院門跡坊人。至徳元年の長川流鏑馬日記に「越智殿」とあり,春日若宮祭に流鏑馬頭役を勤仕する願主人の一員で,同氏は南大和の願主人を率いる散在党の刀禰(盟主)であった。出自については大和源氏宇野氏の一族,物部氏あるいは橘氏であるとする諸説のほか,信州井上氏,伊予河野氏の同族であるともいうが,不詳(高取町史)。多く源姓を称した。建暦3年と推定される藤原為親等連署請文(春日神社文書/鎌遺2044)に見える「源家弘」は越智氏の祖先とみられ,また弘安8年3月23日付落書起請文(辰市家文書/春日大社文書6)で大和無双悪党といわれた「越智住人貞家九郎兵衛入道」も一族であろう。次いで,南北朝期には観応元年高師直と対立して大和国に下向し南朝に帰順した足利直義を仲介した越智伊与守(伊賀守)の活動が知られるなど,越智氏は南朝方の重鎮であったとみられる(太平記28,大乗院日記目録貞和6年10月条)。延文2年には越智伊豆守が南朝方の一乗院門跡実玄らに率られて南都で大乗院門跡に乱入したという(大乗院日記目録延文2年10月15日条,園太暦延文2年12月21日条/大日料6‐21)。室町期以降には南大和最大の豪族に成長,一族に国民楢原氏のほか堤・玉手・坊城・池尻・軽の諸氏を擁し,被官には鳥屋・子島・壺坂・米田・興田・弓場・下室らがいた(明日香村史・高取町史)。永享元年衆徒筒井氏一族井戸氏と国民箸尾氏の扶持する豊田氏の紛争に端を発して筒井・箸尾両氏の抗争となったが,越智氏は箸尾氏と与力,筒井十市領内を焼掠した(満済准后日記永享元年12月2日条)。ここに始まる大和永享の乱で越智氏は終始南大和国衆の旗頭となり,永享4年筒井氏の要請で幕府が畠山・赤松両氏を大和に派兵した際には「長谷雄(箸尾)才千くほ城」が落城している(同前永享4年9月29日・10月3日・12月3日条,看聞御記永享4年12月6日条)。なお,この頃越智氏は将軍足利義教から疎まれた世阿弥の子息観世元雅を郷内に匿っている(吉野天河神社蔵能面銘)。なお室町期には越智観世座があり,観世十郎(元雅子)が南都などでも活動した(寺社雑事記文明13年2月9日・15年3月18日条など)。同6年には筒井氏の若党片岡が越智氏に属したため,再度筒井方と合戦となり,越智氏は筒井館に発向して筒井五郎以下を討取った。この結果,越智氏は筒井から官符職を奪取,越智雅通はこれを与党の衆徒豊田・福智堂・小泉らに執行させた(看聞御記永享6年8月16日条・大乗院日記目録永享6年8月15日条)。ところが,翌7年9月筒井一族の成身院光宣はまたもや越智治罸の軍を幕府に申請,河内畠山氏以下が大和に入国した。同年10月には越智氏は自焼没落して,その遺領は畠山家臣遊佐氏に宛行われたというが,越智方は直ちに反撃に転じ,戦線は膠着状態となった(看聞御記永享7年10月21日条,大乗院日記目録永享7年9月日・12月29日条)。同8年7月になると将軍義教と不和になった舎弟大覚寺義昭が多武峰に下向,越智がこれに味方したため,幕府は越智討伐を決行,翌9年にかけて斯波氏はじめ武田・細川・京極氏らの幕府軍が派遣された(大乗院日記目録永享8年7月日・9年2月9日条など)。同11年には越智舎弟次郎が雪別所(現在の橿原市別所町付近)で討死,越智維通も長谷寺宿屋に潜伏中発見されて自害している(同前永享11年3月24日・同27日条)。これに伴って越智方は総崩れとなり,翌年6月幕府軍は帰京,越智遺領は一族の国民楢原氏に与えられ,同氏が越智を継いだ(同前永享12年6月2日条)。しかし,嘉吉元年8月嘉吉の乱に乗じ畠山持国に扶持された越智氏子息(越智家栄)が蜂起し,まもなく惣領に復している(同前嘉吉元年8月2日条)。以降,越智家栄は大和における畠山氏の与党となったが,享徳年間に畠山氏の家督をめぐって弥三郎・政長と持国・義就が対立するに至ると,政長を支持する筒井氏らに対抗して義就党となった。康正元年7月弥三郎の敗北によって筒井順永が没落,越智家栄は南都に進出して鬼薗山城に拠ったという(同前康正元年9月24日条)。長禄3年6月将軍義政が筒井順永らを赦免,畠山義就は越智合力のため軍兵を大和に派遣して緊張が高まった(寺社雑事記長禄3年7月18日条)。翌4年9月には義就が中央で失脚して河内に下り,次いで政長が義就攻略のため大和入りして竜日に布陣した。翌10月両軍は神南山付近で合戦,義就方の先陣越智備中守家国・彦三郎・彦左衛門らが討死した(経覚私要鈔長禄4年10月11日条,長禄寛正記/群書20)。越智家栄は同合戦に参陣しなかったが,越智氏は元来吉野方面に隠然たる連絡網を有しており(上月記/続群29下など),この時も吉野天川に逃れた義就を暗に援助している(寺社雑事記文明元年10月26日条)。応仁・文明の乱では義就のために後南朝の皇胤を吉野から探索して壺坂に擁したという(同前文明2年7月18日条)。文明9年義就の河内下向によって筒井氏とその与党の勢力が国中から一掃された。当時越智郷のみであった越智の私段銭賦課は筒井氏・箸尾氏・十市氏らの勢力範囲にも広まった(同前文明10年9月28日・12年9月27日条など)。また戦費獲得のため,八木に数百間の市屋形を設け,津料を徴したという(同前文明18年11月9日条)。家栄は古市澄胤と並んで「一国中此両人応下知者也」と評され,明応2年5月には与党の衆徒・国民を家臣のように従えて上洛するなど,勢力はその最盛期を迎えた(同前明応2年3月1日・5月19日条)。明応6年畠山尚順に呼応した成身院順盛の軍兵によって越智郷は焼かれ,越智家栄はいったん壺坂に退き,やがて吉野方面に走った(明応六年記/続群2下,寺社雑事記明応6年11月18日・同23日条)。しかし,明応8年赤沢朝経が奈良に入部すると,越智氏は筒井氏と和睦,大和国衆30余人の一揆盟約がなった(寺社雑事記明応8年10月26日条)。大和国衆の盟約は永正5年まで数次にわたって結ばれ,越智氏は国判衆としてその主導的地位を占めている(多聞院日記永正2年2月4日条など)。大永年間〜天文年間には吉野地方(現在の大淀町・吉野町付近)を支配下に収めたが(大永2年9月晦日付起請文/談山神社文書,証如上人日記天文5年正月20日条など),国中では筒井氏との抗争もあって勢力は徐々に衰微した。春日社石灯籠の大永7年11月日付銘文に「源家栄」と見えるのが(さきの家栄とは別人)当時の越智惣領であるが(県史蹟勝地調査会報告2),家栄のあと越智氏は貝吹山城に拠る家益の系統と高取城の家広の系統に分裂したといい,一族の内訌が衰退に輪をかけたともいう(高取町史)。天文15年には筒井氏の軍6,000余騎のために越智の貝吹城・興田城が奪われ,次いで観覚寺合戦で敗北,越智氏は牢人となった(多聞院日記天文15年9月25日・10月3日・同10日・18年10月13日条)。永禄2年松永久秀の大和入部の頃は筒井氏の旗下に入り,越智伊与守家増(家益)が出て活躍した(同前永禄9年正月15日条,米田氏文書永禄9年9月朔日付越智家増春日社灯明田寄進状写/高取町史)。天正年間には越智玄蕃頭家秀が筒井順慶に従属,天正8年の織田信長の大和一国指出し検地で越智郷の高1万2,000石が所領と認められた(多聞院日記天正8年10月22日条)。家秀は天正10年6月,本能寺の変後には筒井順慶とともに出陣しているが,翌11年8月順慶に教唆された家臣に謀殺され,これとともに越智氏は滅亡した(同前天正10年6月14日・11年8月26日条)。「大和記」に大和国侍四人衆の1人として「高取〈居城越知村トモ云〉越知玄蕃亮……知三万五千石程」と記す。同年12月,順慶家臣松蔵弥八郎が3,000石で当郷に入部(同前天正11年12月29日条),翌年11月には越智郷新坊方寺門段銭100石の沙汰のため松蔵右近・豊浦修理・沢田一兵衛が越智郷代官となっている(同前天正12年11月20日条)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7398633
最終更新日:2009-03-01




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