ケータイ辞書JLogosロゴ 上市村(近世)


奈良県>吉野町

 江戸期〜明治22年の村名。吉野郡のうち。幕府領。村高は,「慶長郷帳」「寛文郷帳」ともに333石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに307石余。中世以来島の市として発展してきた上市も,吉野川の水流の変化によって中州が浸食され,人家は次第に北岸の尾仁山方面に移り,新しい上市を形成した。貞享3年の記録は「往古は古市場戎社前ニ数百軒之住居有之処,追々前川年々水増し,端ばし人家流出ス,仍之水分山より三十間東迄水刎を致し,雖防洪水強ク,追々北村へ引移り,終ニ人家なしニなル」と伝え,中州集落を決定的に覆滅したのは延宝2年の大洪水であるという(吉野町史)。同7年検地帳にはすでに中州集落(古市場)はなく,反別は田1町9反余・畑18町8反余・楮畑1町6反余・漆畑2反余・茶畑2町5反余・屋敷1町5反余,小松・草山7町余,藪3反余,柏木457本,小物成として山手銀22匁・竹役銀4匁余・柏役銀227匁余となっている。家数・人数は,文化2年441(高持202・水呑235・寺4)・1,742,元治元年340・1,310(同前)。年貢は,安政4年には,取米102石余,村高比33%,作毛比75%となり,ほかに数種類の小物成や高掛物があり,いずれも代銀納であった。ほかに仙洞御所献上の釣瓶鮎鮨が10巻あった。伊勢街道筋にあり,山上詣・高野詣・伊勢詣の拠点であり,吉野川筋の奥郷を商圏とした市場町・街道町であった。宝暦8年名寄帳によると,商人のほとんどが米屋・魚屋・畳屋・筏屋・榑屋など近隣を対象としたものであった。宿屋や材木商人もいたであろうが,商号からは判断できない。今日,日本一の山林地主と目される北村家(木屋又左衛門)は当村の住民であり,江戸中期には盛んに奥郷へ進出していたが,史料上で北村家のような木屋が輩出するのは文化年間以降で,文化2年10軒,同6年20軒,天保5年17軒となっている(同前)。文化2年明細帳によると,「古来より毎月六斎市場ニ御座候処,村内困窮ニ付,当時壱ケ年ニ六度之市ならでは相立不申候」とあり,住民は「耕作之他,男ハ小商ひ賃持仕候,女ハ糸絈稼仕候」とあり,享和2年西谷村明細帳では,当村は盆前の7月6日と11日,暮の12月21日と26日の年4度の市となっている。しかし,その一方で固定客が増加しており,文化11年には家数350軒のうち屋号を有しているものが232軒を占めていた(県綜合文化調査報告書)。神社は,文化2年宮座帳によれば,古く中州集落(古市場)に祀られていた産土神の島天神(のち水分神社)があったが,「暫ク尾仁山堂ケ峰ヘ移シ置キ其後増口領之内椿井森江引ウツシ往古古市場当名上市村并増口村中増村三ケ村之産神ト仰キ候事」となった。そして島天神氏子年寄筋目(上市筋目)が形成され護持した。また市神の戎神社も現在地に移され,尾仁山年寄筋目が発言力をもった(県吉野郡史料)。寺院は真言宗妙法寺,浄土宗西方院,浄土真宗本願寺派沢井寺・浄宗寺・大西寺。明治6年貫徹舎設置,翌7年沢井寺に移転,同9年島田駒次郎倉庫に移転。同年飯貝小学校合併,同11年分離,同17年新校舎建設,同20年上市尋常小学校と改称。明治15年頃の村況は,税地は田4町4反余・畑33町2反余・宅地5町1反余・山林12町余・芝地9反余・藪地2反余,戸数341・人口1,342(男711,女631),馬3,渡舟2・漁舟6,人力車10,物産は茶200斤・楮皮700貫(町村誌集)。同22年上市町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7398883
最終更新日:2009-03-01




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