ケータイ辞書JLogosロゴ 観覚寺村(近世)


奈良県>高取町

 江戸期〜明治22年の村名。高市郡のうち。江戸期には勧学寺村と書くことも多い(慶長郷帳・寛文郷帳・元禄郷帳)。高取藩領。村高は,文禄検地,「慶長郷帳」ともに635石余,「寛文郷帳」「元禄郷帳」ともに677石余,「天保郷帳」685石余。寛延年間の地方蔵方寺尾勤録によれば,寛永16年に上方337石余・下方339石余と高分けしたというが,不詳。子島寺(観覚寺)の門前に発達した街村で,寛永末年以降にそれまで高取山城に居住していた藩主や家臣らが山麓に移住して城下町を形成すると,当村内の町場も高取城下の一部となり,正保年間の和州高取城山之絵図(天理図書館保井文庫)には観覚寺町と注記され,城下町的な扱いをうけていた。このため,町方に対しては一般の村方が課せられる糠藁縄俵人足役を免除された反面,屋敷高の課税は10割,藩の公用として馬冷【うまひやし】から別所郭に至る道づくり・掃除のほか,藩主の在邑中は御屋敷辻から大井手橋まで大掃除が課せられた。ただし当村全体としては村方として扱われ,町奉行支配下ではなかった。鎮守の善女竜王・千寿院・大日堂(真言宗)は除地,正一位天神・西光寺(浄土宗)は年貢地であった。天保年間の御領内高附では,家数125,人数は家持330・借家65(高取町史)。明治15年頃には,幅員は東西11町余・南北12町余,税地は田44町余・畑10町余・宅地3町余・山林9町余・藪3反余の総計68町余,戸数123・人口712,牡牛6・牡馬4,人力車3・荷車8,吉野街道が通り,寺社に高皇産霊社・池上社・金刀毘羅神社・千寿院・西光寺・光永寺があり,物産は木綿工夫飛白2,500反,古跡中山忠光戦場跡(町村誌集)。同22年高取村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7399064
最終更新日:2009-03-01




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