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- 車町(近世)とは
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車町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷南組のうちもとは芝居町(初発言上候帳面写/大阪市史5),延宝7年の水帳では車町と見える(南区志)元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば,家数33軒,役数37,うち無役数1(年寄),年寄は住吉屋仁右衛門「宝暦町鑑」に「長ほり北側より一筋内の丁,塩町通也,心斎ばし筋より東」の町とある遊女歌舞伎の時代,寛永3年安井九兵衛が芝居と遊所の道頓堀設置許可を得て,道頓堀に芝居町が形成される以前は,新町遊郭と西横堀川を隔てた東側の勘四郎町・芝居町(南勘四郎町・車町)のあたりに芝居小屋がかけられたという(大阪の芸能)明治7年まで当町域に,片葉のアシを生じたことで有名な芦間池があった芦間池を一名丼池【どぶいけ】といったためか,同地辺りを丼池と俗称した(全志2)明治2年大阪東大組,同3年大阪南大組に所属同5年塩町通1~4丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
車町(近世) 江戸期~明治10年の町名明治元年からは六地蔵を冠称伏見町のうち南組六地蔵組15町の1つ山科川以東,大津街道沿いに位置する東は畑町,西は茶屋町豊公伏見城ノ図によれば,街道沿い両側は町家,その裏は北部に京極刑部少輔・南部大膳大夫など,南部に宮部善祥坊・大野修理亮などの屋敷が描かれる伏見城の廃絶に伴い武家屋敷地は耕地化していったが,街道沿いの町家は江戸期にも町場を形成延宝7年の六地蔵村検地帳には耕地居住地に当町名が見える(宇治市史)伏見大手筋から六地蔵の地に至り,畑町で奈良街道に合する道は醍醐車道と呼ばれ,大津などとの運送に利用されていた当町名はこの車道によるかと思われる明治元年16番組,同5年伏見第12区,同7年第14区に所属同10年六地蔵村に編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」