ケータイ辞書JLogosロゴ 子島(古代)


奈良県>高取町

 奈良期から見える地名。高市郡のうち。延暦7年に成立した「延暦僧録」巻2長岡天皇菩薩伝に「於南京丹恵山造子島山寺」とあり,桓武天皇が丹恵山に子島山寺を造り,十一面観音像を安置したことが見える。その年代は延暦5年創立の近江梵釈寺の前に記されていることから,延暦5年以前のことと考えられる。また同書感瑞応祥皇后菩薩伝に,延暦4年桓武皇后の帳上に赤雀が現れたので,丹恵山小島寺に田を喜捨し,春秋十一面悔過を行わしめたとある。一方江戸中期頃子島寺によって作られた「子島山観覚寺縁起」(仏教全書)によると,「和州高市郡子島山観覚寺は報恩法師の開基也,其地子島邑なるを以て,子島寺と号す也……天平宝字四年三月,和州高市郡子島邑神祠之畔に伽藍を建て,一丈八尺の観音像及四天王像を安置し,号して子島寺と曰ふ」と説く。天平宝字4年に創立されたという伝承は「元亨釈書」や「本朝高僧伝」に見えている。「子島邑神祠」とは元慶5年従五位下を授けられた「子島神」であろう(三代実録元慶5年11月14日条)。「今昔物語」巻11第32話には大和高市郡八多郷に小島山寺があったとする。なお享禄4年に写された長田寺縁起(小浜市史)には「大和国高市郡矢田郷子島山寺」とある。元慶4年陽成天皇は清和太上天皇不予のため,病気回復を願って新薬師・四天王・香山・長谷・壺坂など12か寺に使者を遣わして,燃灯料を奉り功徳を修している(三代実録元慶4年11月29日条)。仁和元年大和国霊験山寺たる長谷・壺坂両精舎には灯分稲が設定され,国司に付して出挙されているにもかかわらず,両寺に次ぐ霊験山寺である子島山寺にはそれがないので,大外記大蔵朝臣善行は私稲400束を国司に付して出挙し,その利稲を寺家に送り,長明灯の資にしたいと願い出て許されている(三代実録仁和元年10月3日条)。「延喜式」主税上に「子島寺料四百束」と見えるのは,これに対応する規定である。「子島山観覚寺縁起」によると,一条天皇の御宇,興福寺の真興僧都が来住し,和州真言流派のうちで「子島法流」を開き,学徒雲集して学の頂主と仰がれた。彼は境内に方6町の一院を営み観覚院と号し,大日慈尊之像を安置してここに住したという。子島寺の境内は「西北は平田・真弓・檜前・阿部山村に疆し,東南は高取・壺坂・吉備・木辻に至る」とあり,広大な地域を占めていた。寛弘4年藤原道長は金峰山詣の途中,同寺に立寄っている(御堂関白記寛弘4年8月6日条)。現高取町上子島・下子島付近に比定できる。現在子島寺は高取町観覚寺にあるが,上子島の観音院も子島山と号し,当初はこの観音院の近くに所在したとみられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7399523
最終更新日:2009-03-01




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