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- 城戸村(近世)とは
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城戸村(近世) 江戸期の村名基肄【きい】郡のうち基山【きざん】北西部の狭小な平野部に位置する当地には古代の基肄城跡があり,地名の由来は基肄城の戸口にあたることによるという対馬藩田代領基肄上郷に属す村高は,「肥前国郷村畝高帳」によれば文禄検地高526石余・慶長検地高688石余,正保2年692石余(基山町史),「慶長国絵図」では688石余,「正保国絵図」では692石余,「天保郷帳」では692石余,「旧高旧領」には見えない元禄絵図によれば,寛文3年,新町白坂町が形成された宝永2年の田代領郷村人高竈数書上帳によれば,竈数92(うち名子3・隠居7)文政9年の御物成并竈数人高吟味帳では竈数125(うち本家115・名子10),人数654,神社1氏神老松宮は,寛和元年山城国北野神社の分霊を勧請して創建したと伝えられ,菅原道真を祭神とする基肄城南門跡に当たる水門のそばには住吉宮があり,筒男三神を祀る白坂町は元禄絵図では現在の白坂集落を3つに分けた形に集落があり,北方に7軒,南方に13軒,西方に5軒の人家が見える藩政後期には製蝋・売薬が盛んだった氏神八幡神社は集落の西方丘陵上に鎮座し,中央には猿田彦大神を祀る村内の池ノ坂古墳群は早くから開口し,藩政期には弾圧を受けた新後世宗信者たちの隠れ道場となったが,代官所命令で大半が破壊されたという「明治7年取調帳」では1村として見え,枝村に白坂町・小倉村がある「郷村区別帳」では小倉村の枝村として「城戸分」と見える「明治11年戸口帳」によれば,小倉村のうちに「城戸村」と見え,戸数145・人口756「基肄郡村誌」によれば明治5年小倉村に併合されたという |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
城戸村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
城戸村(近世) 江戸期~明治初年の村名添上郡のうちもとは下狭川村のうちで,「寛文郷帳」には当村名が見えないが,「元禄郷帳」では下狭川村とは別に当村名が記載されており,江戸前期に下狭川村から分村して成立したただし,「元禄郷帳」では下狭川村枝郷と注記されており,また「天保郷帳」では下狭川村のうちに含まれて下狭川村一村として記載されている伊勢津藩領村高は,「元禄郷帳」274石余,「旧高旧領」272石寛延年間の戸数36(うち無足人1)・人数174,馬3,寺院に西念寺がある(宗国史)明治初年下狭川村に合併現在の奈良市下狭川町のうち通称下狭川口城戸町にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」