- JLogos検索辞書>
- 関屋村(近世)とは
「関屋村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治9年の村名埴科【はにしな】郡のうち南東の保基谷山と西のノロシ山に囲まれた山間に位置し,南は地蔵峠に通じる地名の由来は往古北国脇往還が通っていた交通の要地で,関屋があったことにちなむといわれる応永12年11月21日の源関神社棟札に,この地の豪族関屋市兵衛の名前が見える(信史7)松代藩領村高は,「慶長打立帳」314石余,「正保書上」319石余,「元禄郷帳」334石余,「天保郷帳」354石余,「旧高旧領」440石余慶安2年には高319石余・新田高20石,分村(枝村)として南北淵村・宮村・赤柴村・新屋村・四か村がある(更級埴科地方誌)山年貢の多い村柄であった文化6年の「朝陽館漫筆」では人数653,安政3年には144軒(領内村々家数留/県史近世史料7-1),慶応3,4年の家数等改帳では戸数145・人数673関屋口留番所が置かれていた(長谷部家文書)明治4年松代県を経て長野県に所属同9年豊栄村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~昭和15年の村名安芸国高宮郡(もと安北郡)のうち鈴張川最上流部の東谷川流域に位置する山間の地地名の由来は,「往古ハ関所ニ而茂御座候而」と記される(国郡志書出帳)広島藩領弓削氏丸給知村高は,元和5年「知行帳」,「芸藩通志」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに82石余なお元和5年「知行帳」では「せきや村」と見える免は9ツ2厘,鈴張村とともに領内随一の高免であった(芸備郡要集)村の広さは東西11町・南北16町飛郷雲田・力石・竹内が鈴張村内に散在し,「民戸田畝二村相混ず」という状態であった(芸藩通志)文政2年の戸数29(うち大工・紙漉各1)・人数139,牛17・馬2(郡中国郡志),用水は井手4・雨池2から取水,農間余業では山繭紬織・紙漉に従事明治4年広島県に所属同15年鈴張村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
関屋村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」