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- 樋口村(中世)とは
「樋口村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 樋口村(中世) 室町期に見える村名伊都【いと】郡隅田北【すだきた】荘のうち地名としては鎌倉期から見え,建仁元年6月日の沙弥某処分田地坪付案(隅田家文書/県史中世1)の「清村分」の中に「五反〈樋口自河東常久名田之内〉」とあるこの「河東」とは,岩倉池から垂井・中島を経て高橋川と合流する岩倉川(現在の隅田川)の東の意と考えられるまた嘉暦3年6月日の沙弥空心料米寄進状(隅田八幡神社文書/同前)で寄進された法華経読誦雑事料米3斗の田の在所は「隅田北庄字樋口」であり,常重名内であったその後室町期の文安元年6月日の大宗・長慶連署畠地売渡状(隅田家文書/同前)では「すたきたのしやうひくちのむらのうち,あさな〈おにしはたけ〉」の畠180歩が直銭2貫700文で葛原殿に売却されている現在橋本市中島の小字に樋口があり,当村は中島のうちに比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 樋口村(中世) 南北朝期~室町期に見える村名摂津国のうち山城八坂法観寺領文和3年11月3日の如延・常暁連署寄進状(法観寺文書/大日料6-19)に「壱所,津国六庄 樋口村かちし」とあるのが初見で,如延・常暁が法観寺の放牛和尚の塔頭に当村の加地子などを寄進しているその後,室町中・後期のものと推定される摂津国寺社本所領并奉公方知行等目録(内閣文庫所蔵文書/豊中市史史料編1)によると,当村は法観寺領ではあったが,実際には不知行の状態となっていたことがわかる大阪府域かと思われるが,比定地は未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 樋口村(中世) 戦国期に見える村名出羽国仙北【せんぼく】山本郡のうち天正19年頃作成の「仙北郡村数日記写」に,太閤蔵入地に指定された手洗【てたらし】郷39か村のうち,「とよの口むら」とある(色部文書)おそらく梅沢城前の大沼の取水口に小字樋口【とよくち】として地名をとどめる地域に位置した村と推定する近世秋田藩政下では,梅沢村枝郷麓【ふもと】村のうち正保4年検地帳写にも「とよ口」とある(高橋家文書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 樋口村(中世) 戦国期に見える村名出羽国秋田郡のうち秋田実季領文禄元年8年22日「秋田家分限帳写」に館岡半兵衛代官所「樋口村」539石余とあるのが初見史料(秋田図書館所蔵文書)「秋田家分限帳」には慶長6年鉄炮衆・鑓衆知行地にひの口村之内17石3件,鎌田旦右衛門代官所「ひの口村」337石余などがある(秋田家文書)近世は広面【ひろおもて】村の枝郷となり,「享保郡邑記」では「とよのくちむら」と読み,家数5... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」