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- 平群郡とは
「平群郡」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 平群郡 江戸期の当郡の村数と総石高は,「慶長郷帳」では2万8,865石余,「寛永郷帳」では69か村・2万8,804石余,「寛文郷帳」では72か村,「元禄郷帳」では77か村・3万1,756石余,「天保郷帳」では76か村・3万2,013石余,「旧高旧領」では80か村・3万1,167石余 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 平群郡(古代) 「和名抄」安房国四郡の1つ訓は「倍久利」当初は上総国に属したが,養老2年5月,安房国が上総国から分置された際,安房・朝夷【あさひな】・長狭【ながさ】の各郡とともに安房国となったその後,天平13年12月,安房国が上総国に合せられ,天平宝字元年5月には再度,安房国が立てられたが,当郡の所属もこれに従って変動した天平神護元年2月には平群郡人壬生美与曽・広主の2人に平群壬生朝臣の姓が与えられている(続日本紀)また,正倉院御物の布の銘に「平群郡□□(白浜カ)郷清□(岑カ)里大弓部得万呂」「平群郡大里郷戸主□(穴カ)子部三国戸服□(織)部□(尼カ)万呂」とあり,これらの布が当郡から京進されたことがわかる(県史料金石2・3)「和名抄」高山寺本では,砥河【とがわ】・達良【たたら】・石井【いわい】・狭隈【さくま】・長門・大里・穂田・川上・白浜の9郷からなり,ほかに余戸・駅家が置かれた安房国府は砥河郷に所在した郡域は現在の鋸南【きよなん】町・富山町・富浦町および三芳村と館山市の一部を含む平安末期に律令的な郡は解体して行政単位としての機能を失った当郡域は分割・再編されて,南東部は新熊野社領群房荘に編入され,南西部には多々良荘が成立,また,郡域の北部は国衙領として平北郡と呼ばれたらしい中世以降には平群郡の称は廃され,郡域の指称としては北郡・平郡などの称が用いられた... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平群郡【へぐりぐん】 古代~近代の郡名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」