ケータイ辞書JLogosロゴ 且来郷(古代)


和歌山県>海南市

 平安期に見える郷名。名草郡三上院のうち。地名としては旦来とも書く。治安3年11月23日の太政官符案(薬王寺文書/県史古代1)に「多太村参町 旦来四図三里柒坪壱町……勢田村弐町玖段参佰伍拾弐歩 旦来四図四里四坪捌段」とあり,「三上野院」の「多太村」「勢田村」にまたがる条里呼称として見える。また治暦3年2月6日の太政官符(同前)にも「多太村旦来四図参里柒坪壱町……勢田村弐町玖段参佰伍拾弐歩 旦来四図四里四坪捌段」とあり,「和名抄」の且来郷が多太村,勢田村などとして細分化しつつも,地名としてそれぞれの村内に残ったものと推測される。郷名としては,久安元年11月1日の秦宿禰守利私領売渡状案(間藤家文書/県史中世2)に「□(譲カ)渡 私領壱処事 在紀伊国名草郡三上院,合十二郷」とあり,「十二郷」のうちに小勢田郷,多田郷,小野田郷などとともに「且来郷」と見える。本文書は,三上院の「十二郷」を在地の土豪であった秦宿禰守利が「相伝私領」として僧湛慶に譲渡したことを示すものであるが,保元元年11月11日の僧湛慶私領譲状案(願成寺文書/同前)によれば,「右件三上院,自本主散位秦宿禰守利手,僧湛慶譲得,荒野開発仕,美福門女院御願観(歓)喜光院御檀(壇)供之御庄寄進畢」とあって,湛慶は三上院を開発の上,美福門院御願の歓喜光院に寄進し三上荘としたことを伝える。三上荘立荘時の当郷については不明だが,平安末期〜鎌倉初期には且来保となり,その後,中世には且来荘と呼ばれた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403125
最終更新日:2009-03-01




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