ケータイ辞書JLogosロゴ 天野郷(古代〜


和歌山県>かつらぎ町

 平安期から見える郷名。伊都【いと】郡天野社領六箇七郷のうち。江戸期に編纂された「高野春秋」の正暦5年7月6日条に,高野山の大火ののち東三条院詮子によって天野社に寄進された郷として「天野・花坂・志賀・四村・教良寺・山崎」が見えるが,郷名としての確実な史料的初見は承安3年10月5日の僧尊慶田地売券で,「天野郷字上大門」内の田地1反が弁智房に売り渡されている(武本為訓氏所蔵文書/平遺3635)。その後建長3年10月19日の能栄田地売券には「天野郷内字名五反之下」とある(高野山正智院文書/鎌遺7373)。弘安6年2月11日の僧五郎利銭借券には,「天野郷之内字上大門,五郎カ私領水田壱段」と見え,2貫700文を同年11月までに返済しない場合には地内の水田1反を代わりとする旨が記されている(高野山文書/大日古1-3)。「続風土記」高野山之部寺領沿革通紀に略記された弘安8年9月日の金剛峯寺寺領注文写に「天野郷〈同(御室)検校預〉」と見え,高野山領であったことがわかる。嘉元2年12月24日の僧定尊御影堂陀羅尼田寄進状には,「天野郷内字大門」の田地1反が高野山御影堂の長日陀羅尼田に寄進されたことが見え(同前1-2),正和4年2月9日の定実田地売券には「天野郷内小サワノシリ字アシ原」とある(同前1-5)。延元2年5月25日の西道垣内畠売渡状には「六ケ郷内上天野字北村」と見え,このころには天野郷が上・下に分かれていたことが知られる(飛見家文書/県史中世2)。正平17年7月6日の高野山大集会評定事書案には,高野山の中院と谷上との間で荘園をめぐる相論が起き,高野山の四箇院に荘園を改めて配分しており,「鞆淵 毛原 天野 三谷 安楽川」が中院領となっている(同前)。室町期においても天野郷内の田畠に関する売券・寄進状があり,郷内の地名として応永16年5月3日の阿闍梨祐珍学道竪義料田寄進状に「塚原」,同年8月21日の入寺勝算頼宥天野問答講料寄進状に「天野釈迦文院垣内」が見える(高野山文書/大日古1-3)。また応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記には「六箇七郷内」として「参斗四升九合一勺 天野郷」とあり,当郷は3斗4升9合余の天野社一切経会段米を負担している(同前1-4)。嘉吉3年5月28日の山王院一御殿造営勘録状には,高野山山王院一御殿の造営に際し「諸庄々官引馬料足納分」として「三百文 天野郷庄官中」と見え,当郷の荘官が引馬料300文を負担していたことがわかる(同前)。その後,天正3年12月の鞆淵荘大工職寄進状には「アマノシヤウツシ」として「浄心院北坊内源良」の名が見える(鞆淵八幡神社文書/県史中世1)。天正6年12月27日のせい二郎山地売券や同18年2月24日の天野大庵室栄春作職売券などには,「ちこく(地獄)谷の山」「勧阿弥かいと」と見え,天野如意輪寺の教順房は,このころ当地内の山林・田畠およびその作職などの集積を行っていることがわかる(丹生広良氏文書/かつらぎ町史)。江戸期には上天野村・下天野村が見え,現在のかつらぎ町上天野・下天野・神田【こうだ】一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403156
最終更新日:2009-03-01




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