ケータイ辞書JLogosロゴ 芋生村(中世)


和歌山県>橋本市

 室町期に見える村名。伊都【いと】郡隅田北【すだきた】荘のうち。地名としては平安末期から見え,仁安元年11月日の公文藤原忠村田畠等処分状案(隅田家文書/県史中世1)に「一処 芋生居内家地田畠在屋立物等」とある。当地内に公文の屋敷があり,付属する田畠が広大なものであったこと,その四至に「南限吉野河」「北限田北今延井尻堀を西□□是恒屋西縄際」とあることから,紀ノ川近くの用水路を擁する地帯であったことなどがわかる。なお「万葉集」巻3の弁基の歌として「亦打山夕越え行きて廬前の角太河原に独りかも宿む」とある廬前を,「続風土記」は「当村の芋生は伊保の音便に転せしならん,然らは庵崎は庵村の出埼の義にて,今村領に紀ノ川へ突出たる埼あるをいへるならん」と考証している。下って鎌倉期には延慶2年7月7日の隅田八幡宮禰宜田注進状案(葛原家文書/県史中世1)に「〈いもうの〉いや三郎〈へそたに〉」と見える。康永2年8月15日に書写されたという隅田八幡宮神事帳写(同前)には,毎月八幡宮下行日記の「一,西サ(座)ノ南十九前(膳)内かつわら〈二前,ミやまる〉」の中に「いもうの新次郎のあと,いまハ一前」「むかいのいや九郎とのあと,いまハいもうとの二前」などと見え,当村を本貫とした隅田一族の芋生殿が神事に加わっていたことがわかる。明応元年3月7日の奥書のある芋生氏知行分長帳(芋生家文書/県史中世1)によれば,芋生氏は当村を中心に,河瀬【こうぜ】村,赤塚村,山内村,大和国宇智郡などに散在的に田畠を所有していた。また応永22年9月17日の隅田一族定書(隅田家文書/同前)には,隅田・政所一族29名の署名の中に「いもう」が,同32年11月1日の隅田一族定文(同前)にも,一族32名の署名中に「芋生(花押)」が,下って天文23年正月28日の利生護国寺法度条々隅田一族起請文案(彦谷村上田家文書/橋本市史上)にも42名の署名中に「芋生紀介秀(花押)」が見える。明徳4年6月日の芋生村東光寺供僧職補任状(隅田家文書/県史中世1)によれば「隅田庄苧(芋)生村東光寺供僧職」に「国方仰」すなわち紀伊守護大内義弘の口入によって,八幡宮阿闍梨実秀および隅田荘下司上田貞範が連署して長円房を補任しており,守護権力の浸透がうかがえる。応永18年10月日の隅田荘内検帳(葛原家文書/同前)には作人の名として「〈いもう〉けん七」が見える。同26年12月日のれいちん畠地売渡状(芋生家文書/同前)によれば「きのくにすたの中すちいもうの村つりいかいと」の畠2反を直銭2貫文で「すたのいもう次郎殿」に売り渡している。同27年正月1日の隅田八幡宮朝拝頭人差定(葛原家文書/同前)には「東南座 藤二郎かいと きたいもう」とあるのをはじめ,年月日欠の隅田一族交名案(同前)にも「芋生」「藤次郎垣内北芋生南山田」,同じく年月日欠の隅田八幡宮庁座結番案(同前)の「東南」の6番に「〈北イモウ垣内〉藤二郎〈南山田殿〉」とあり,北芋生という地名が存在し,南山田殿が居住していたことがわかる。芋生氏が隅田荘で塩の取引きに関する公事銭をあつかうことは畠山政国の守護代遊佐長教より認められている(芋生家文書/県史中世1)。紀ノ川の水運を利用したものと考えられる。なお,現在当地内に残る小字小島は隅田一族の小島氏の本貫地で,康永2年8月15日の隅田八幡宮神事帳写(同前)の「西土のきた廿一前」の1つに「こしまとの二前」,室町期の隅田一族交名案(同前)に「小島屋敷」,利生護国寺の天正13年の古瓦に「小島与一」(橋本市史下),天文23年正月28日の利生護国寺法度条々隅田一族起請文案(彦谷村上田家文書/橋本市史上)の署名中に「小島澄(花押)」などと見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403392
最終更新日:2009-03-01




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