ケータイ辞書JLogosロゴ 石内荘(古代〜


和歌山県>御坊市

 平安期〜南北朝期にみえる荘園名。日高郡のうち。日高荘とも見える。勧学院領。初見は「中右記」天仁2年10月19日条に「宿日高郡氏院庄司石内庄司宅〈申剋,庄司有儲〉」とあり,熊野参詣の途中,藤原宗忠は同荘司宅に宿泊し儲をうけている(大成)。帰路は11月5日,「日高庄」の「日高重方宅」で昼食をとり,同氏から伝馬の提供を受けており,石内荘の記載はない。反対に往路は日高荘の記載はない。参詣の休息・宿泊の順路からみて石内荘と日高荘は同一荘園を示すと考えられる。これより以前,「大御記」永保元年9月29日条には,「日高郡友高,薗財庄・日高庄等送粮糧等」と見える(県史古代1)。さらに,嘉元3年4月ごろと推定される摂籙渡荘目録の「氏院領」の項に紀伊国の櫟原荘・石田荘・有間荘・宮原荘とともに「〈清康入道相伝之〉日高庄 一方家国 一方重綱」が見え,氏院荘である石内荘が見えないので,本文書からも日高荘と石内荘が同じ荘園であることが確かめられる(九条家文書1/図書寮叢刊)。暦応5年1月日摂籙渡荘目録には「日高庄,一方,一方」とあり,紀伊国櫟原荘・石田荘・有間荘・宮原荘とともに「今度御敵押領之間,不及被付給主云々」と注記され,給主の支配が実現されていないことがわかる(同前)。「明月記」建仁元年10月10日条に,「渡河参イワウチ王子」と見え,また「頼資卿記」承元4年4月26日条には「日高川御渡事,国司儲御船,次参御石内王子」とあって,当荘内には熊野九十九王子の1つ石内王子があった。鎌倉後期の歌謡を集めた「宴曲抄」熊野参詣には「愛徳山をばよそに見て,氷高の河の川岸の,岩打越浪よする」と歌われている(続群19下)。熊野街道沿いの当荘の荘域について詳細は不明であるが,日高川下流域左岸一帯に広がっており,現在の御坊【ごぼう】市域南部と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403405
最終更新日:2009-03-01




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