ケータイ辞書JLogosロゴ 上野浦(近世)


和歌山県>串本町

 江戸期〜明治22年の村名。牟婁【むろ】郡のうち。和歌山藩領御蔵所。村高は,慶長検地高目録では「上野村」と見え145石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに182石余。御高並村名帳によると江田組に属し,村高180石余うち新田高37石余,ほかに御崎大明神領2石余(南紀徳川史10)。文禄2年の潮御崎神社棟札には「紀伊州牟漏郡塩埼庄上野村」とある(串本町教育委員会編:塩埼荘)。江戸期に発達した漁村で,慶長16年8月16日の加子米究帳(栗本家文書)では出雲【いずも】浦・串本浦とともに水主役数40(先高30)・代納升高48石,御領分加子米高帳(田中家文書)によれば江戸初期には水主米高33石余が課せられていた。慶安3年の古座組在々郷組之次第(古座町教育委員会保管文書)では,家数68軒・人数83,船16,馬2。「続風土記」によれば,家数145軒・人数918,集落は海岸段丘上にあるため水に乏しく,村民は小谷から水をくんで生活した。村内に二分口役所が設置されており,二分口役所控によると,「漁事には重に釣を稼候」と見え,細網3・鰹釣船7・漁舟大小14・中舟4・いさは(商船)4などがあった(南紀徳川史12)。上野浦の南部,潮岬沖は,漁業上・海上交通上の要所で,寛政年間の「熊野巡覧記」には「常に荒浪立て往来の廻船順風にも舟を乗る事不自由也。依是上野村出雲村の漁船出て漕通すと也。南方海路第一の難所也」とある(紀南郷土叢書8)。潮岬には常夜灯のほか,遠見番所が置かれた。「名所図会熊野篇」には特産物として,珊瑚樹と解毒剤として用いられる菊銘石をあげている。神社は,周参見【すさみ】浦から津荷村までの海浜18か村の総産土神である御崎大明神社があり,寺院には臨済宗上野山高松寺がある(続風土記)。御崎大明神社は紀南漁業の精神的支柱で,古くから近隣浦々が漁業上の取決めを協議した潮岬会合の場となっていた。他地方の漁民から当地方の好漁場を守るため,寛永14年下田原から見老津【みろづ】までの18か浦の庄屋が集まり潮岬会合を改組し,寛文12年にはきびしい漁業上の規則を定めた(潮御崎文書)。また上野浦沖は,万治年間からの古座捕鯨方の3月から4月までの春漁の網代であった(県史近現代5)。野田泉光院の「日本九峰修行日記」文化15年3月7日条によると,泉光院は当地を訪れ御崎大明神社にもうで,納経したのち村内を托鉢し,藤兵衛宅に投宿している(庶民史料2)。幕末の地士には鈴木喜平次がいた(南紀徳川史11)。明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数257,男771・女774。同年の「地誌取調御達」によると,田5町余・畑14町余,牛185,産物は鰹節・竹・海藻,廻船6・漁船43。同年潮岬灯台点灯。同9年高松寺庫裏を利用して清明小学校(のちの潮岬小学校)開校。同12年西牟婁郡に属し,同22年潮岬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403541
最終更新日:2009-03-01




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