ケータイ辞書JLogosロゴ 相賀南荘(中世)


和歌山県>橋本市

室町期に見える荘園名伊都【いと】郡のうち相賀荘河南ともいうなお「高野山文書」には単に相賀荘とも記されている応永3年9月20日の相賀南荘畠惣目録(高野山文書/大日古1‐4)に「相賀南庄畠惣目録」とあるのが初見当荘は元弘3年10月19日の後醍醐天皇綸旨(束草集/大日料6‐1)のいわゆる「元弘の勅裁」によって,根来【ねごろ】寺領相賀荘のうち,紀ノ川以南の地が「御手印縁起」の四至内という理由で高野山領として認められ成立をみたしかし,南北朝の動乱期には高野山の荘園経営は軌道に乗りにくかったものとみられ,江戸期の「高野春秋」の暦応2年5月条では,まだ当荘をめぐる根来寺との相論があったことが記されているなお正平17年7月6日の高野山大集会評定事書案(飛見家文書/県史中世2)によれば,当荘は西院分に含まれている当荘内には「相賀河南一族中」という武士団がいたこの武士団は鎌倉期の坂上氏の後裔が中心で,生地や島など当荘内の地名を冠した氏で構成されていた生地氏は元弘3年7月10日の池田荘豊田村地頭職文書紛失状(湯橋家文書/同前)に「大塔宮祗候人」として「生地蔵人師澄」が見え,「太平記」巻34の和田楠軍評定事に見える延文4年の竜門山の戦では,この竜門山にたてこもった南朝方の在地武士の中に当荘の生地氏・贄川氏の名が見え,南朝方として活躍していたことがわかるまた「花営三代記」康暦2年9月7日条に「紀州生地城没落」と見えるのは,北朝方山名氏清の進攻を受けて落城した生地氏の拠点で,当荘内にあった畑山城にあたるものと考えられる相賀荘の鎮守であった相賀大神社所蔵の「相賀荘惣社大明神神事帳写」は江戸期に編纂されたものであるが,中世の古記・注文を材料にしたものと考えられ,これによると生地氏などから毎年米の上納があったこと,また天授3年ころの8月放生会の記録では,相賀荘河北の18か村のほか,当荘内の禿【かむろ】村・向馬場村・畑村・清水村・向副【むかそい】村・横座村の6か村が見えており,当荘分離後も相賀荘全体の鎮守として機能していたことが知られる(相賀大神社文書/同前1)室町期の応永2年,高野山は検注を実施した同年12月10日の相賀荘在家帳(高野山文書/大日古1‐4)によれば,合計83宇の在家が書きあげられており,おのおの在家の所在地として「禿」「島」「門坂」「住吉」「田宮」「東畑」「畑」「トヤ」「西畑」「モハラ」「清水」「市ハ」「賢戸」「コノウ」「向副」「横サ」などの地名が当荘の西から東の順に注記されている応永3年9月20日の相賀南荘田惣目録(同前)および同年月日の同荘畠惣目録(同前)では,当荘は清水村・向副村・畑村の3か村として把握されており,田数30町1反54歩,畠49町6反288歩となっていたまた「除仏神人給分」として挙げられている中の寺社関係のものには,御国忌料・寺尾堂免・小田寺・小田大明神・河南天神・河北総社・田楽米・天神大日堂日仏供米・島大師・清光寺免・壇施寺免・良春房借屋などがあり,河北総社は上述の相賀大神社と考えられるまた河南天神は,応永6年8月7日の相賀南荘公文弘澄請文(同前)および文正元年3月27日の相賀荘民起請文(同前)の中に見える「当庄鎮守天満大自在天神」「天満天神」にあたり,当荘の総氏神として精神的支柱となっていた小田大明神は前述の応永3年の田惣目録や畠惣目録によれば,清水村に鎮座していたとみられるほか,前述の応永2年の在家帳によれば,清水村とみられる箇所に「衛門次郎 小田明神神主」と見える小田寺は神宮寺と考えられ,これら寺社の田畠は1町1反余になり,相賀南荘の総氏神河南天神に次ぐものである相賀荘惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書/県史中世1)の天授3年12月の「宮人家別之事」によれば相賀北荘の河北総社へ上納される折敷餅7束のうち2束が南荘の小田大明神へ納められていたこのことより総社とかかわった重要な神社とみられる現在,同名の神社は存在せず,古代の式内社小田神社や後世の社皇神社とのかかわりも考えられるが,詳細は不詳一方上述の「除仏神人給分」の荘官関係のものには,下司惣追捕使給・公文給・預所給・新荘下司給・散仕給・公文代免・船渡免・番頭免・惣追捕使屋敷・公文屋敷・公文代屋敷などが見えるなお上述の文正3年3月27日の相賀荘民起請文には「去年当年の夜打事,於庄下存知不仕候」として当荘の荘民全体が署名しており,その人数は83名で,上述の応永2年12月10日の相賀荘在家帳の在家数と一致することから,当荘の在家数が固定していたことが知られるまた応永2年の在家帳には殿を称する殿原層の在家9宇が見え,文正元年の起請文の署名者の中には,名字を名乗り花押を用いる荘民が23名見えており,この人々が荘民の中心となっていたと考えられる時代は下るが,永禄9年4月の禿村家数調断簡(大畑家文書/橋本市史上)には侍分の記載が見られるなお高野山御影堂文書の中から発見された応永3年の相賀南庄分田切符帳によれば,人供74口,花水供28口,計22町3反119歩となっており,口数は上述の応永3年の当荘畠惣目録と変化はないが,同惣田目録とは一致せず,田数は総田畠の約4分の1である地主と記されている者144名のうち75名が1反未満,42名が1〜2反の者で,極めて零細であり,また作人も156名のうち1反未満が75名,1〜2反が41名となっている一方上述の応永2年の在家帳と比較すると,名前および居住地が一致するのは53名で,すべて作人か,もしくは地主職を併せもつ作人に限られ,地主職のみを有する者,作人であっても他に加地子得分を有する者は在家に登録されていないことがわかる(日本浄土教史の研究)しかし大検注の実施にもかかわらず応永6年6月11日の相賀荘三供僧契状(高野山文書/大日古1‐4)には「当庄年貢等,追年減少,以外次第也」と見え,高野山の当荘支配は思うに任せなかったことが知られる同年8月日の相賀南荘公文弘澄請文(同前)には,「自三供僧御方被仰出御年貢未済事」と見えるなお応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文(勧学院文書/高野山文書1)の当知行分の荘園として「相賀南庄」が見える以降同7〜25年にかけて多くの相賀南荘供僧評定事書案および同荘三供僧評定事書案(高野山文書/大日古1‐4・5・6)が残されており,当荘内の問題が処理されていたことが知られる下って応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記(同前1‐4)には「一,伍斗 相賀南庄」と見えるまた長禄元年11月27日の山王院二御殿并惣社上葺勘録状(同前)に「諸庄々宮引馬料足納分」として「五百文 相賀庄宮中」と見える相賀荘は,当荘のことと思われる紀ノ川以南,現在の橋本市南西部一帯に比定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403589
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ