ケータイ辞書JLogosロゴ 大崎(古代〜


和歌山県>下津町

 奈良期から見える地名。海部【あま】郡のうち。中世では浜仲荘に属し,のち黒田村のうちとなる。初見は「万葉集」巻6の天平11年ごろの作と推定される「石上乙麿卿の土佐国に配さえし時の歌三首」と題する長歌に対する反歌で,「大崎の神の小浜は狭けども百船人も過ぐといはなくに」とある(古典大系)。また,巻12にも「大崎の荒磯の渡延ふ葛の行方も無くや恋ひ渡りなむ」とあり(同前),この時期には,すでに四国への船出の港となっていることがわかる。平安期には所見しないが,鎌倉期に下ると,嘉禎4年9月25日の日前国懸宮四方指(日前宮古文書/和歌山市史4)では,「日前・国懸社御遷宮時四面四至糺定堺郷々事」として,「坤〈他領 大崎海,雑賀庄海,神領 毛見郷海,担子洲於当東小島,甲崎於当東方堺〉」と記しており,日前・国懸宮神領の南西方向の境界となっている。また,文永7年2月9日の湯浅宗業田地寄進状(高山寺文書/鎌遺10577)には,「寄進 星尾寺 紀伊国浜仲庄北方内大⊏⊐五段田地事〈分米拾伍斛〉」とあるが,この「大⊏⊐」の欠損部分については,浜仲荘北方には大崎と丸田が位置するため,おそらく「大崎・丸田」の文字が該当すると推定される。したがって,当地の地頭と推測される湯浅宗業によって,地内の田地5反が星尾寺(有田【ありだ】市神光寺)に寄進されたものと思われる。その後,正応2年12月日の湯浅宗重跡本在京結番定文(崎山家文書/県史中世2)では,湯浅党の支配下にある諸荘を,在京奉公のために結番しているが,その中に,「五番 浜仲庄〈除九日(丸田)大崎 加「他門」(朱筆)小倉新庄三ケ日〉三月十五日まて」「十二番 保田庄〈加丸田・大崎・岩野川・阿弖河上方半分定〉十月三日まて」とみえる。南北朝期の貞治元年11月25日の沙弥道智譲状写(御前家文書/同前)では,保田荘地頭職をはじめとする諸荘の領家職・地頭職・下司職などを譲り渡しているが,このうちに「一,同(紀伊)国 黒田村大崎地頭職事」と見え,この時,黒田村大崎地頭職も沙弥道智(貴志宗朝)から貴志朝綱に譲られたことが知られる。なお,当地の西部佐田山に梶原氏の居城と伝える梶原城跡があり,同氏について江戸期に作成された「紀伊国旧家地士覚書」(大日料11-14)には,「海士郡大崎にハ梶原と申仁居申候,知行ハ大崎村にて御座候」とあり,梶原景時の子孫と称する梶原某が,下野国より当地に移り,天正13年の豊臣秀吉の紀州攻めまで勢力を有していた旨が記されているが,「続風土記」古文書編に収められた在田郡広荘の広村梶原氏所蔵の文書には,梶原吉右衛門なる人物が小田原北条氏の水軍の中核として活躍したことが見え,当地の梶原氏と密接な関係にあったことが推測される。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403628
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ