ケータイ辞書JLogosロゴ 大谷村(中世)


和歌山県>かつらぎ町

 鎌倉期〜室町期に見える村名。伊都郡官省符荘下方のうち。荘名でも見える。村名の初見は文治5年3月16日の僧某田地相博状(早稲田大学所蔵文書/鎌遺374)で,「紀伊国伊都郡高野山御領大谷村〈字檀(壇カ)上〉」とあり,当村内の田地1反60歩が淡田運智が相伝する田地1反半と相博されている。建久3年7月27日の本家下文案(高野山文書/大日古1-4)によれば,「高野山領紀伊国於揖里・大谷者,内宮之時依被免除,不被宛之,河北方長栖・大野・山田・村主・川辺岸上,依一庄之内,殊有御沙汰,皆悉有御免」とあり,官省符荘のうちでも早くから役夫工米が免除されていたことが知られる。元久元年7月日の金剛峯寺所司等解状(同前1-1)でも,造内裏役について,紀伊国司が「揖里・大谷百四十余町者,本自免除畢」と述べている。また宝治元年7月日の造外宮主典頼高言上書案(同前1-3)にも「揖里・大谷庄百卌町 分米卅二石二斗〈済卅一石八斗六升四合〉已上両庄,文治雖有御免,建永済分明也」と荘名で記されている。上述の字「壇上」については,元久2年8月26日の僧長円田地相博状(同前1-2)で,「字檀(壇)上」の田地1反60歩を得蔵房と相博している。下って弘長元年4月30日の僧行敏田地宛行状(同前)で,「字壇上」の田地1反が尊月房に宛行われ,文永10年閏5月4日の僧道鑁田地宛行状(同前1-5)で,「字壇上唯教田」の田地205歩が春台殿に配分されている。正応3年4月27日の僧了鑁御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)で,「字壇上」の田地1反が御影堂に寄進されている。建久5年8月日の浄蓮房田地宛行状(同前1-5)によれば,「本庄大谷内島田」の田地240歩が泉勝房に宛行われ,同6年2月泉勝房慶信は,同田地を能米6石5斗で西忍房に沽却している(同前1-4)。そして寛喜元年12月26日の大法師晴範田地売券(同前)で,当村の田地240歩が直米6石で春密房に売り渡されている。なお嘉元元年10月13日の阿闍梨明俊御影堂田寄進状(同前1-3)には「調田村」のうちとして「字内島田」が見え,当村の一部を調田村と称していたことが知られる。建久7年3月25日の僧覚篋田地売券(同前1-5)によれば「大谷村字薦園」の田地1反(現作300歩)が現米8石で覚仁房に売り渡され,正治2年閏2月17日の僧行源田地・房屋敷地相博状(同前1-3)で,同田地が密恵房の房および敷地と相博されている。元久3年卯月12日の紀三子畠地相博状(同前1-5)には「大谷大ヤフムラ長畠」とある。承元2年11月13日の日置永枝田地売券(同前1-3)によれば,「大谷田井」の田地260歩が現米6石で僧是明に売り渡されている。嘉禄元年11月25日の僧慶兼田地売券(同前1-4)によれば「大谷村〈字島田東〉」の田地50歩が馬1疋で五郎殿に売り渡され,また同2年正月26日のくまゐ包頼田地売券(同前1-5)でも,当村の田地50歩が銭1貫文で正ノ介に売却されている。なおこの2通の売券の端裏書に「トシマタ」とあり,これは建長5年6月4日の賀守常貞田地売券(同前1-3)に見える「大谷外島田」にあたるものと考えられ,同地内の田地50歩が直乃米1石2斗で願力房に売却されている。下って正和5年7月21日の大法師良円御影堂陀羅尼田寄進状(同前1-2)によれば,「大谷字上田井戸」の田地1反が,正中2年6月26日の入寺祐然御影堂陀羅尼田寄進状(同前)では,当村内の田地240歩が御影堂に寄進されている。元徳3年3月19日の僧教寂田地宛行状(同前1-4)によれば,「大谷村院田内」の田地1反が禅道房に宛行われている。なお正和2年12月21日付の裏書がある大法師頼胤御影堂陀羅尼田寄進状案(同前1-2)では,「官省符下方大谷村字長田」の田地1反が御影堂に寄進されている。南北朝期延元2年9月3日の官省符在家帳(同前1-7)には,道順房の入寺免1宇の注に「大谷六郎」とあるものをはじめとして,5宇の在家が記載されている。なお明徳2年の年紀を有する諸供領臈次番付書(同前1-8)の149臈に配分された耕地に「大谷村垣上」,以下同じく169臈に「大谷住人」,175臈に「大谷村字長田」,194臈に「大谷字別所谷」,205臈に「大谷村」が見える。応永2年11月22日の大谷村田帳(御影堂文書/かつらぎ町史)によれば,126筆の田地が書き上げられており,田数は8町248歩だった。また同年月日の大谷村畠・在家帳(同前)によれば,87筆の畠地,畠数4町4反290歩,在家16宇(下地9反240歩,田地310歩)であったことがわかる。なおこれら田帳と畠・在家帳に見える字名には「口」「ツイ(調)田口」「小松谷池ノシリ」「ツイタノ谷」「クサ谷堂ノホリ」「クワハラタウノ西」「湯家ノ本」「クホ田シリ」「別所谷」「コモウカワラ」「フチ垣内」「せキヤノ堂ノ北」「ウエノヒラ」などがある。応永3年7月日の高野山政所下方里坊注文(勧学院文書/高野山文書1)には,「大谷村分」として2宇の在家が記されている。年月日未詳の四郷以下公方役書上(高野山文書/大日古1-8)には「管(官)省符下方分 応永廿九年」として「同(6)月 京上一口 大谷村」と見える。下って戦国期の永正15年3月晦日の孫三郎等連署山売券案(西飯降区有文書/かつらぎ町史)によれば,「竹尾山」の四至に「限東大谷定」とあり,当村の西に存在したことがわかる。天正9年3月吉日の田所永敏作職売券写(短野区有文書/同前)の署名者7名の中に「〈大谷〉右衛門太郎」の名が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403664
最終更新日:2009-03-01




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