ケータイ辞書JLogosロゴ 小田村(中世)


和歌山県>高野口町

 鎌倉期〜室町期に見える村名。伊都郡官省符荘上方のうち。正応2年12月日の比丘尼法阿弥陀仏御影堂田畠寄進状(高野山文書/大日古1-2)に「金剛峯寺領河北方小田村〈字義(美カ)細原〉」とあるのが初見。田1反180歩・畠1反を御影堂に寄進しており,これは明徳2年の年紀のある諸供領臈次番付書(同前1-8)の144・145臈にあたる。なお同番付書の78・109・128の各臈の作人の注記に当地名が見える。また嘉元4年5月日の御影堂陀羅尼田不見帳面坪々注文(同前1-4)の83臈にも「美細原八十歩〈作人丹生今上住,小田住人〉」とある。徳治3年7月21日の僧勝金田地売券(同前1-5)では「小田村之内サカ井田ノフル井ノ尻」の田地1反が直銭6貫文で善福房に売却されている。南北朝期延元2年9月3日の官省符荘在家支配帳(同前1-7)には「検校御房十五宇」の中に「一宇小田仙勝」「一宇小田定方」「一宇小田幸善」とあるのをはじめとして16宇の在家が当地にあったことが知られる。応永3年5月日の官省符上方惣田数分米目録(同前)および同年月日の官省符上方惣畠数分麦目録(同前)によれば,田数は17町350歩(分米75石7斗5升8合),畠数5町7反260歩(分麦7石7斗2合),在家17宇(下地9反140歩)であった。応永3年8月日の小田村・伏原村分畠切符帳中書(御影堂文書/かつらぎ町史)によれば,当村は18〜29および山籠8・9の14口に分田されており,地主としては,薬師堂・小田堂・正智院・桜地院・佐賀御堂などの寺院の他,小田殿・松岡殿・鶴松殿・亀岡殿などの殿原層も見える。また小字名として「御堂前」「河副東」「久原坪」「大之内」「佐賀河副」「森本」「岸上」などが記されている。当村を本貫としていた小田殿は年月日未詳の官省符上方分田支配注文(高野山文書/大日古1-7)によれば,所司の給分として分田3口を小田村・名古曽村・清水村で給されていた。なお同注文によれば,当村に御社仏性2口のうち1口,勝利寺仏性2反340歩,人供193口のうち19口,荘官分2口,承仕口1口,河南定使1口,上方公文代1口5反が分田されていたことがわかる。上述の小字名の中に見える「佐賀河副」は,弘安11年正月29日の松若田地売券(同前1-3)には村名で見えるが,応永16年8月日の政所上方名寄下書(同前1-8)には「小田村〈付佐賀〉」とあり,当村に含まれていたことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403806
最終更新日:2009-03-01




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