ケータイ辞書JLogosロゴ 河根村(近世)


和歌山県>九度山町

 江戸期〜明治22年の村名。伊都郡のうち。高野山行人領。村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ともに105石余。天正19年10月日付の高野山寺領注文に,「伊都郡……百八石六斗五升 かね」と記されており,当村108石余が高野山領として豊臣秀吉から承認されている(勧学院文書/高野山文書1)。「続風土記」では,田畑高105石余,家数130軒・人数548,小名は茂野。江戸期から当村は学文路【かむろ】より高野山へ通じる主要な参詣道沿いの宿場として栄えた。烏丸資慶の「高野山路之記」には「慈尊院ははるかに南のかたなるべし……ややのぼりてかぶろのすくを過て兼といふ所に至る」とある(続群18下)。また「名所図会」には「此処谷間にて,薬研の底のごとし。旅舎多し」と見え,旅舎,茶店が軒を連ねていた。また丹生川には長さ18間・幅2間半の橋が架けられ,千石橋として知られた(続風土記)。当村は高野紙の生産地として名高く,当村近郷を紙郷と称したといい(同前),「名所図会」には「産物傘紙 同(河根)村にて製す。世に高野紙といふ。六十枚を一帖とす」とある。なお地内には塩竈の古跡とされる大石があり,その岩のくぼみから塩が湧き出るという(名所図会)。明治4年2月旧赤穂藩士村上兄弟は日本最後の仇討ちとして著名な仇討ち事件をおこしたが,同兄弟は事件前日に地内の本陣中屋に投宿している。神社は河根丹生神社(高野明神社)・中山弁財天社など5社で,河根丹生神社は河根・東郷【ひがしご】・丹生川3か村の氏神。寺院は真言宗日輪寺。同寺は高野明神社の別当寺。ほかに地蔵堂2宇。堺県,五条県を経て明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数167,男375・女383。同22年河根村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7403941
最終更新日:2009-03-01




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