九重村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。伊都郡のうち。和歌山藩領知行所。中組(学文路【かむろ】組)に所属。村高は,慶長検地高目録では322石余,ほかに小物成2石5斗余,「天保郷帳」「旧高旧領」では332石余,正徳元年の検地帳写によると,慶長6年には田16町1反余・畑11町9反余,家数38軒,桑木92束・紙木97束半・櫁柑木10本・柑子木11本・茶59斤140目などが記されている(高野口町誌上)。延宝5年の禿組指出帳控によると,村高328石余,田17町余・畑5町余,家数37軒うち本役21・半役9・無役7,人数232,牛14・馬3(大畑家文書/同前)。天和3年の人数218(西山家文書)。正徳5年に当村と上中・下中両村との村境争論があり,同年伊都郡奉行小山田庄助により裁決がなされた。この争論は近隣の竹尾村・嵯峨谷村を含めた5か村がからむものであったが,書面で決定できない村境は両村立会いのもとで決めること,各村道の通行の自由は保障されること,他村の道を切り落として新道を付けた村は罰金を支払うこと,入作者は村の下木を刈ってはならないことなどが言い渡されている(九重区有文書)。「続風土記」によれば,家数42軒・人数230,神社は上中・下中・田原・九重4か村の氏神である信田明神社のほか弁財天社など小祠4社,寺院は信田明神社の別当古義真言宗神宮寺のほか同宗妙典寺がある。信田明神社は泉州信太森(大阪府和泉市)から勧請したといい,天元年間に拝殿・御供所などを改造したと伝え,また里人は同社を土竜封じの神としており,神宮寺からは土竜封じの護符が発行されていた。明治4年和歌山県に所属。同6年には戸数44,男106・女110。同22年信太【しのだ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7404286
最終更新日:2009-03-01