ケータイ辞書JLogosロゴ 久戸山村(中世)


和歌山県>九度山町

 鎌倉期〜室町期に見える村名。伊都【いと】郡官省符荘河南方のうち。弘長元年11月29日の増万田地売券に,「在紀州伊都郡政所久戸山村之内〈字褁谷〉」と見え,当村内の田80歩を直米2石で永代売り渡している(高野山文書/大日古1‐6)。この地は,建治4年正月16日の僧一賢御影堂陀羅尼田寄進状に「八十歩……〈河南 久戸山字褁(裹)谷〉」とあるもので,高野山に御影堂陀羅尼田として寄進されている(同前1‐2)。地名としては,すでに寛元3年12月4日の大法師弘覚畠地売券に,「在金剛峯寺御領高野政所河南方〈字久戸山小坂畠〉」とある(同前1‐3)。この地も,元応3年2月21日の僧宝成畠地譲状に見える「高野政所久戸山村之内字小坂畠」と同じものであろう(同前1‐4)。建治3年9月1日の紀薬師女畠地売券に「在河南久戸山村」,同年12月13日の僧宝寿御影堂陀羅尼田寄進状の端裏書に「久戸山宝寿寄進状」とあり(同前1‐5),弘安6年4月25日の入寺某畠地充文に「在河南方久戸山村」,同年7月12日の厳澄利銭借券に「高野政所久戸山村居垣内屋地」と見え(同前1‐4),乾元元年12月12日の坂上虎王畠地売券には別筆で「政所久戸山村畠地売券」と記されている(同前1‐5)。嘉元4年5月日の御影堂陀羅尼田不見帳面坪々注文に,「弘安三年帳面雖在之,近来帳不見之坪々事……五十八臈 次北小安田〈……当作人蓮信 久戸山住人〉……四十臈 次北二百歩安田〈……久戸山後家尼 畠作〉」などと見え,当村の住人が御影堂陀羅尼田の作人として現れている(同前1‐4)。元亨4年4月9日の比丘尼浄阿御影堂陀羅尼田寄進状に四至として「限北久戸山堂田」とある(同前1‐2)。鎌倉期には,売券や寄進状に散見されるにとどまり,当村の全体については不明であるが,延元2年9月3日の官省符在家支配帳には「久戸山新行事垣内」「久戸山力万」「久戸山蓮願垣内」「久戸山孫九郎垣内」「久戸山幸福垣内」「久戸山蓮仏垣内」「久戸山定賢垣内」「久戸山京蓮垣内」「久戸山辰石垣内」「久戸山良得垣内」「久戸山弥三郎垣内」「大湯屋敷設免六宇……一宇久戸山新次郎垣内」「慈尊院承仕一宇久戸山三郎太郎」などが見え(同前1‐7),応永3年2月29日の官省符河南方田数目録には「一,久戸山村分 田弐町九反小卅歩……畠四町三反半十歩……在家十二宇 同村唵田島田二丁半十歩〈加出作定〉」とあり,応永3年5月日の官省符上方惣田数分米目録に「一,久戸山村〈河南内〉……已上田数三町三反半五十歩」,同年月日の官省符上方惣畠数分麦目録に「一,久戸山村分〈河南内〉……以上八丁四反小五十歩……在家十二宇」などと記されており(同前),高野山による応永の大検注を経て,当村の田数は3町余,畠8町余,在家12宇として把握されるようになる。なお天正13年に原型ができたと推定される「粉河寺旧記控」に,文明16年2月「晦日,徳政之儀ニ付高野領甚騒動発候」「高野衆者……寺尾・久度山迄出陣在之」と見える(粉河寺文書/県史中世1)。江戸期に編纂された「高野春秋」元亀元年10月15日条によると神通寺において七社修復落慶供養の費用を負担した官省符荘の村々の1つとして九度山があげられている。また天正7年2月15日の矢落山売渡状に「口入人数……九度山清三郎」の名が記されている(亀岡家文書/高野口町誌上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7404315
最終更新日:2009-03-01




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