ケータイ辞書JLogosロゴ 小松原(中世)


和歌山県>御坊市

 鎌倉期から見える地名。日高郡のうち。「明月記」建仁元年10月10日条に,「次寄小松原御宿,御所辺向宿所之処,已無之……此御所有水練便宜,臨深淵構御所」と見え,後鳥羽院は熊野参詣の際に当地に宿所を設けており,現在より流路を西側にとり,小松原の付近を流れていた日高川の近くに設営されたらしいが,筆者藤原定家は院の御所近くに宿を求めたが得られず,日高川を渡って石内王子付近でようやく小家を見つけている。同じく23日条には「日出之後,渡川,過小松原,超シゝノせ山」と記されている。「頼資卿記」承元4年4月26日条には,「於小松原有御昼養」と見える。建暦2年2月日の後鳥羽院庁下文に,「園宝郷壱処事……今彼卿(郷)所寄進熊野新宮御領也……但於所当者……其残玖拾捌斛可為御熊野詣小松原御宿大粮用途」とあり,日高郡の園宝郷を熊野新宮に寄進しているが,その所当のうち新宮分・本宮分・那智分を除く残り98石は院の小松原宿泊の大粮用途に充てるとしている(熊野速玉)。当地は中世の歌謡にも歌われ,鎌倉後期の「宴曲抄」熊野参詣に「宝,富安千年ふる,様にひかるる小松原,愛徳山をばよそに見て,氷高の河の川岸の,岩打越浪よする」と歌われている(続群19下)。また謡曲「道成寺」にも,「日は程なく入り潮の煙満ち来る小松原,急ぐ心かまだ暮れぬ,日高の寺に着きにけり」と見える(謡曲集/古典大系)。「常楽記」康暦2年3月18日条には,「了賢房妻室於紀州小松原宿他界〈熊野下向,於九品寺荼毘〉」とあり,熊野参詣途上当地で亡くなった女性を,九品寺で荼毘にふしている(群書29)。応永16年2月16日室町将軍家御教書案(熊野速玉)によると,熊野衆徒は小松原をはじめとして,山東・近露・塩見坂の熊野参詣路の各要所で「山中警固」を構え,また「寺社勧進」と称して熊野の参詣人から粮物を取って悩ますと幕府に訴え,足利義持は熊野山の意見を入れてこの4か所の関を停廃するように命令を下している。富安荘にも関があったことが知られるが,小松原は富安荘に含まれるので同一の関と思われる。この小松原の地は関がおかれる交通の要所であった。室町期〜戦国期には,当地を本拠とする国人領主湯河氏の活躍が見られる。湯河氏は熊野八荘司の1人で,もとは道湯川(西牟婁【にしむろ】郡中辺路【なかへち】町)を本拠として日高郡に進出し,南北朝期には幕府方に味方し,のちに将軍家奉公衆となる。寛正3年12月16日に到来した湯河政春書状には「こまつ原より」とあって,湯河家の惣領政春は当地から書状を発信している(東京湯河家文書/県史中世2)。戦国期には,勢力を拡大し御坊平野一帯を支配した。天正13年には豊臣秀吉による紀州攻めがなされ,「多聞院日記」3月25日条に「湯川可打果トテ人数立」とあり,「小早川家文書」に収められた隆景宛同日の秀吉書状に「千石権兵衛尉・中村孫平次・小西弥九郎其外人数,至湯川館差遣候」と見えるように,湯河氏への攻撃がかけられ,「武徳編年集成」31所収4月4日の秀吉書状には「敵一人茂無之,悉逃散由,小松原城普請申付」とあって,湯河氏は没落,小松原城は中村・九鬼氏に普請が命じられている(大日料11-14)。小松原は戦国期には町が形成されていたと思われ,慶長6年の検地帳によると「町人」の存在が知られ,また小字のうち「西道」に大半の屋敷が集中している。また同帳には「城内」という小字も存在し,湯河氏の館跡を確認できる(御坊市史3)。西道は熊野参詣路にそった道で,その両側に屋敷がならんだ。湯河氏はこの町を城下町として支配した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7404579
最終更新日:2009-03-01




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