ケータイ辞書JLogosロゴ 鹿瀬(古代〜


和歌山県>広川町

 平安期から見える地名。在田【ありだ】郡のうち。「吉記」承安4年9月26日条に「起湯浅,於鹿背原昼養」とあるのが初見(大成)。「源平盛衰記」巻9に「嶮所を過るには,鹿瀬・蕪坂・重点・高原・滝尻」とあるように,当地は熊野詣での難所の1つで,山名としては平安中期から見え,10世紀の歌僧増基の紀行文「いほぬし」には「しゝのせ山にねたる夜,しかの鳴をきゝて,うかれけむ妻のゆかりにせの山の名を尋ねてや鹿もなく覧」とある(群書18)。また長久4年ごろに成立した「大日本国法華経験記」第13にも「沙門壱睿,受持法華経年序尚久矣,参詣熊野,宿宍背山」とあり(思想大系),これに関する説話は「今昔物語集」にも見える。また「大御記」永保元年9月28日条には「着鹿背山中宿草庵」とあり,藤原為房が当山中に宿したことが知られる(県史古代1)。以降,天仁2年10月18日中御門宗忠が(中右記/大成),承安4年9月26日吉田経房が(吉記/同前),建仁元年10月23日藤原定家が(明月記),熊野参詣の途中当地を通過している。なお「中右記」には「次登鹿瀬山,登坂之間十八町,其路甚嶮岨,身力已尽,林鹿遠報,峡猿近叫」と,「明月記」には「次参ツノセ王子,次又攀昇シゝノセ山,崔嵬嶮岨巌石不異昨日,超此山参沓カケ王子,過シゝノセ椎原,樹陰滋路甚狭,於此辺有昼養御所云々」と当地の険しく山深い様子が記されている。一方当地は南紀州を守る戦略的要衝でもあった。「玉葉」治承5年9月28日条に「伝聞,熊野法師原,一同反了,切塞鹿背山」と見え,紀伊の知行国主である平頼盛が追討使として下向している。下って「太平記」巻5によれば,元弘2年大塔宮護良親王が熊野に下向しようとした際,親王一行を迎えた戸野兵衛は「鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷ノ者迄モ,手刺者候マジキニテ候」と述べている(古典大系)。また延文5年7月,南朝方が蜂起した際,湯河荘司は北朝方に与して「鹿ノ瀬・蕪坂」に陣を敷いた(太平記巻35/同前)。「元亨釈書」には「釈円善,居睿山東塔院,誦法華,適遊熊野肉背山卒」と見える(国史大系)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7404766
最終更新日:2009-03-01




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