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「新魚町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
新魚町(近世~近代)
江戸期~現在の町名「しんごまち」とも称する江戸期は和歌山城下内町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の北部,本町8丁...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7404972]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 新魚町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南西に位置する東は境町,西と北は桶屋町,南は吹屋町に接する町名の由来は,延宝2年森氏が魚商の町を新設したとき,もとの魚町に対して新を冠したことによる元禄10年の城下町図によれば,家数67うち持家50・借家17,人数696(男391・女305)魚類の販売は当町に限定し,毎日魚市が開かれ,小売商が競りに集まった山間地なので鮮魚はほとんどなく,塩もの・塩干し・焼き魚のほか,海産物のすべてを取引きしたという町には問屋・小売商のほか,市に集まる人のための旅館・飲食店などの商家があった八頭神社が隣の桶屋町にあって,当町と新職人町・吹屋町の4町の鎮守であった明治初期の戸数92・人口387(津山誌)明治期以後問屋街となり美作一円から小売商が集まり,明治末期には新たに魚市場も建てられた今日でも問屋は残る世帯数・人口は,昭和45年92・285,同55年85・264 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 新魚町(近世~近代) 江戸期~昭和46年の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の東,紫川と砂津川の間に位置し,江戸期は海に接していた東は博労町,南は京町と接し,西は武家屋敷につながる東曲輪のうち正徳年間には町名が見え,企救【きく】郡柄杓田村や恒見村などの漁村から魚類を買い求めて市中を売り歩く小魚商人が多かったという(小倉市誌)享保の飢饉では13人の餓死者を記録(開善寺過去帳)幕末期の城下町屋敷絵図によると,東西約60m余の道を挟んで30軒程の町家が並び,道の南側で西の端に寿福院,東の端に安楽院がある山口屋喜十郎は藩方御用の水夫雇入を家業とした(小倉市誌)明治17年の戸数35・人口122同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年北九州市小倉区に所属同46年浅野1~3丁目・京町1~4丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 新魚町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は津城下の1町町人地城の東側に位置し,北は地頭領町,南は築地町に接する町の成立は元和8年と伝えられる(津市史)人数は,寛文5年323(男165・女158),同9年315(男164・女151),元禄14年296(男135・女161)享保7年に東西1町38間の長さという(旧記/津市史)本陣に休泊の際の夫役を課せられている(明治3年町別課役取調書要領/津市史)戸数は明治5年56,同17年55同22年津市に所属昭和29年の世帯数19,世帯数・人口は,同36年25・98,同44年31・111同47年東丸之内の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」