- JLogos検索辞書>
- 住吉町(近世~近代)とは
「住吉町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 住吉町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は和歌山城下内町のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の北東部に位置し,北は東旅籠【ひがしはた...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7405086]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
住吉町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は鹿児島城下下町のうち明治22年からは鹿児島市の町名文政~天保年間頃(一説には安永年間)諸郷公役によって埋め立てられた屋久島岸岐【がんぎ】南端から西の方一帯,北方は名山堀に至る区域に成立した町(鹿児島市史)「県地誌」によれば,東南に海岸を抱き,北は汐見町に接する明治10年代の戸籍簿による戸数541,うち士族16・平民525,職業は無職4・不明187・農業3・雑業324・工6・大工1・木挽1・鍛冶1・商11・下駄1・菓子1・飴1(鹿児島市史)明治後期には海岸に沿って石造倉庫が立ち並び,港町としてにぎわった明治20年頃の戸数221明治41年の戸数226・人口1,186世帯数・人口は,大正11年129世帯・1,126人,昭和10年148世帯・944人 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
住吉町(近世~近代) 江戸期~現在の町名河原町通七条上ルの町寛永18年,東本願寺の寺領拡張後に形成された町承応2年新改洛陽並洛外之図に「すみよし丁」と見え,以後,版行絵図,中井家系筆描絵図および町鑑類においても変化はない江戸期は東本願寺寺内町新屋敷明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】20番組,同5年第30区と改称,同25年第30学区に編成明治12年下京区住吉町,同22年京都市下京区住吉町となり現在に至るこの間,明治14年烏丸桜木町から真宗大谷派善永寺が移転同寺は僧専良の開基明治44年の世帯数39・人口114,大正14年の世帯数24・人口111,昭和40年の世帯数11・人口39人口増減率(昭和40~50年)28.2%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
住吉町(近世~近代) 江戸期~昭和8年の町名当町は高砂【たかさご】町・難波【なにわ】町・新和泉【しんいずみ】町とともに江戸初期は吉原【よしわら】の旧地「江戸紀聞」に「此地は一円の沼にして葭茅の類おい茂りしかば(中略)先ず地形を築き立て」とあり吉原創設者庄司甚右衛門が築き立てた地明暦の大火後,吉原が浅草に移転して町地となり,謡曲の題にちなむ町名がつけられた西側の通りは人形町通りと称した(安政再板切絵図)明治元年東京府に所属同4年までに住吉町裏河岸を合併同5年の戸数186・人口669(府志料)同11年日本橋区に所属昭和8年人形町2~3丁目に編入現行の日本橋人形町2~3丁目のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
住吉町(近世~近代) 江戸期~現在の町名醒ケ井通高辻下ルの町天正18年豊臣秀吉による洛中都市改造によって新しくひらかれた町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図にすでに見える町名は町内に鎮座する住吉神社に由来する江戸期の町内居住諸職商家は染表類・仕入帷子類が著名(京羽二重)江戸期は川西九町組の三軒組,明治2年の町組改正により下京【しもぎよう】8番組,同5年第10区と改称,同25年第10学区に編成明治12年下京区住吉町,同22年京都市下京区住吉町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)20.2%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
住吉町(近世~近代) 江戸期~現在の町名魚津【うおづ】住吉町ともいい,明治26年からは魚津の冠称を省略江戸期は加賀藩領魚津町のうち地名の由来は,天保年中に住吉村からの請地に町立てしたことによる(魚津市史)明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年魚津町,昭和27年からは魚津市の町名同47年大部分が上口【かみぐち】2丁目となり,残余は現行町名として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」