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- 中村(古代~中世)とは
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中村(古代~中世) 平安期~戦国期に見える村名那賀郡名手荘のうち初見は寿永2年10月15日の坂上末国畠地売券で,末国が売り渡した畠1反について「在紀伊国那賀郡名手大塔御庄内字中村」とある(広島大学国史研究室所蔵文書/平遺4111)この坂上末国は,文治2年7月25日の僧俊任田地売券で「名手大塔庄内字中村丹生戸西吉道垣内」の田2反を買得し(東京国立博物館所蔵文書/鎌遺132),翌文治3年2月23日の坂上末国田地売券で,このうち1反を売り渡している(高野山文書/大日古1-6)その後,建治2年4月1日の山籠覚西御影堂陀羅尼田寄進状に「字中村」とあり(同前1-2),延慶3年5月23日の浄蓮御影堂陀羅尼田寄進状に「名手庄中村」と見える(同前)南北朝期には,建武2年12月21日の入寺昌実御影堂陀羅尼田寄進状および暦応2年8月16日の大法師頼照御影堂陀羅尼田寄進状に中村の名が見える(同前)応永32年5月26日の天野社一切経会段米納日記には,名手荘内5か村の1つとして当村が見え,天野社一切経会のために2斗5升2合の米を負担している(同前1-4)永享4年3月19日の名手荘中村検注帳によれば,惣田数は14町6反190歩で,うち上田が3町9反180歩,中田が4町2反220歩,下田が6町2反340歩となっている(勧学院文書/那賀町史)なお本文書には地内の田地の所在を示す地名として「カスリ田坪」「上津島坪」「堀坪」「コクヌキノ坪」「小鼻坪」「庄屋垣内坪」「黒田坪」「ツゝミ坪」「ナル神坪」「坊主垣内坪」「湯屋谷坪」などが見える(同前)現在の那賀町名手市場・穴伏を中心とする地域に比定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」