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- 西紺屋町(近世~近代)とは
「西紺屋町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
西紺屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名文政13年から1~2丁目がある江戸期は和歌山城下広瀬のうちの町人町で,明治12年和歌山区,同22年からは和歌山市の町名となる和歌山城の東部,大...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7405821]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 西紺屋町(近世~近代) 江戸期~昭和47年の町名江戸期は小倉城下の1町「にしこうやまち」ともいう小倉城の南西に位置し,旧板櫃川に近接する西曲輪のうち江戸期は単に紺屋町と称することが多かったが,東曲輪の紺屋町と区別するため西紺屋町と通称された古くは田畑あるいは沼地で,細川氏時代に開発されたという(小倉市誌)当町の北西部には郭外に通じる門があり,紺屋町口門というが,寛永年間にその名称が見え(日帳),町並みもそのころには成立していたものと思われる東は田町,北は武家屋敷,南は鍛冶町に接する享保の飢饉では36人の餓死者を記録する(開善寺過去帳)幕末期の城下町屋敷絵図では家数48軒紺屋が連続していたというが,家数のうち18軒は借家で,町内各地に10か所の明地があり,城下町の中では過疎化の傾向がうかがえる明治22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年からは北九州市小倉区に所属同47年竪町1~2丁目・田町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 西紺屋町(近世~近代) 江戸期~昭和5年の町名「にしこんやちょう」とも呼ぶ首都高速道路沿いの南北に細長い区域かつては外堀に面していた町名は北紺屋町・南紺屋町と同じく,国役を負担する染物師の居住地であったことによる寛文~宝暦年間頃までは南紺屋町と称し,1~4丁目があったが,のち2~4丁目が独立し西紺屋町となった明治元年東京府に所属同5年の戸数90・人口416(府志料)同11年京橋区に所属昭和5年銀座西1~4丁目に編入現行の銀座2~4丁目の西側で各2番にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」