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- 赤崎(中世)とは
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赤崎(中世) 南北朝期から見える地名周防【すおう】国吉敷【よしき】郡のうち「鹿苑院殿厳島詣記」(県史料中世上)に「此たびは五里ばかり行て赤崎と云浦にて,又大風むかひて更に御舟ゆかず,是よりこぎかへさせ給て岩やど(一本岩宿)といふ浦にとゞまらせ給ふ」と見えるこの赤崎浦について「大内氏実録」は現秋穂【あいお】町大海地内の赤崎とし,「地名淵鑑」は現防府【ほうふ】市域田島南部の小茅の地蔵鼻としている「李朝実録」嘉吉3年10月13日条(県史料中世上)によれば,大内教弘が日本国通信使を赤崎浦へ迎えたとあるが,これも同じ地を指すか前記2地点のほか,向島南部にも赤崎がある秋穂町大海の赤崎については,応永9年3月日の曽原左近将監幸範申状(注進案14)の宛所が「赤崎長徳寺侍者御中」とあり,長徳寺はまた赤崎寺とも呼ばれている同申状によれば,応永9年2月17日夜,海賊の侵入によって同5年曽原甲斐入道寄進状をはじめとする証状が紛失したというなお同地に鎮座する赤崎明神について,大永4年成立の「真如堂縁起」(続群27上)に「抑此赤崎明神と申は,芸州厳島明神たゝせ給ふ以前にまづこの赤崎へ影向し給」と見える赤崎明神の別当寺が長徳寺である |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」