ケータイ辞書JLogosロゴ 池野村(近世)


鳥取県>会見町

 江戸期〜明治22年の村名。伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高94石余,「元禄郷村帳」94石余,「天保郷帳」133石余(うち新田高39石余),「元治郷村帳」148石余,「旧高旧領」150石余。元禄の本免は3.6,「元治郷村帳」の物成は48石余。戸口は,「伯耆志」28戸・110人,「文久3年組合帳」26戸。「伯耆志」によれば,産物は炭,隣村は北の鶴田村へ8町,西の八子村へ20町,東の日野郡宇代村へ20町,南の同郡三部村へ20町,産土神は宮谷村にある熊野権現,小祠1・辻堂1がある。鎮守は下宮谷の素盞嗚命を祀る聖権現で,明治元年聖神社と改称。幕末には天万宿から当地を通り,山路を越えて日野郡二部宿へ通じた往還(新出雲街道,上方道という)の往来が繁くなった。松江藩主松平出羽守の参勤交代の通路でもあり,大名道路とも呼ばれた。慶応4年3月,西園寺山陰道鎮撫総督は,京都への帰途にこの上方道を通り,地内雑賀邸で小休止して通過した。その後この道は明治45年国鉄山陰線開通までは,出雲・西伯耆から上方方面への唯一の交通路としてにぎわった。このため茶店もでき,明治2年には地内に3軒の旅人宿があった。明治3年頃に雑賀幾三郎が最後の大庄屋を勤めた。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治6年浅井学校分校が堀田宇三郎宅を借りうけて創設され,校下は池野・鶴田の両村であった。明治20年池野簡易小学校となる。生業は,立地上旧来から耕地が少なく,田畑の開拓に努めるとともに,山稼ぎにも努め薪や木炭が主要産物であった(会見町誌)。同22年賀野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7407259
最終更新日:2009-03-01




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