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- 柿原村(近世)とは
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柿原村(近世) 江戸期~明治7年の村名飽田【あきた】郡のうち小萩山や荒尾山の山麓から井芹川右岸氾濫原にかけて位置する地名は,柿の木の多い原という意とも,垣つまり城のある所という意ともいうが未詳弥生式墳墓の柿原遺跡,美女尻遺跡,天福寺裏山古墳群・畑の原古墳群・羽山古墳などがあるまた,かつての柿原城が城ノ原の地にあり,鹿子木親員(寂心)が隠居後住んだという(事蹟通考)熊本藩領村高は「旧高旧領」649石余慶長13年の検地帳(県立図書館蔵文書)では,「活亀(池亀)村之内柿原村」と見え,高639石余,反別は田25町6反余・畠39町余・居屋敷3町余「肥後国誌」でも,池亀村のうちと見え,池田手永に属し,高633石余,小村に寺籠村・羽山尻村・宮尾村・畑村・森徳村・円徳寺村などがある氏神は柿原八幡宮寺院に曹洞宗天福寺・臨済宗成道寺がある天福寺は延宝6年雲歩行厳道人の開基この時期は寺の新設が認められなかったので,打越村の廃寺天台宗天福寺の寺号を称した創立に際し,白銀300枚と寺地15町3反余・米30石の寄進を受けた(肥後国誌)成道寺の開山は寰中和尚で,応永33年菊池持朝の外護による創立というその後衰微したが,天正年間加藤清正が寺領10石を寄進し再興,寛永9年細川氏もこれを継承,さらに家老沢村家の菩提寺ともなり,毎年米30俵の寄進を受けるようになった(同前)同寺には永享4年と延徳4年の紀年のある2体の六地蔵などが残るなお小村円徳寺村にもかつて寺があり,はじめ円福寺と号し,のち円徳寺と改称したといい,臨済宗寺院で,鹿子木鑑員の建立,開山は通峰和尚という熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年花園村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柿原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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柿原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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柿原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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柿原村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柿原村(近世) 江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柿原村(近世) 江戸期~明治20年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柿原村(近世) 江戸期~明治8年の村名石見国美濃【みの】郡のうち江戸期を通じて津和野藩領匹見【ひきみ】川下流の右岸に位置する地名の由来は不詳庄屋は古川家「万手鑑」によれば元和年間の村高は18石余,寛永14年は51石余,「石見国高郷村帳」「天保郷帳」には記載なし田畑25町余,上納半紙73丸・中保8丸10束・紙船17,家数30・人口136(万手鑑)大元社・八幡社がある明治8年小野村と合併して白岩【しらいわ】村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」