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柏尾村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柏尾村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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柏尾村(近世) 江戸期~明治初年の村名山梨郡のうち栗原筋に属す甲府盆地の東端部,柏尾山の南麓,日川とその支流深沢川の合流点に位置する「元禄郷帳」「天保郷帳」などの郷帳類には当村の名は見えず,勝沼村のうちに含まれていたが,真言宗柏尾山大善寺の寺領として事実上独立しており,山号にちなんで柏尾村と通称していた「国志」に「(勝沼宿の)東拾町ニ柏尾村ト云フ大善寺領アリ,域内七町十四間,駅路ニ交接ス」とある大善寺は養老2年の開基と伝え,聖武天皇の勅願寺となって大いに栄え,建久3年には鎌倉将軍家代々の祈願所となった江戸期には朱印高32石6斗余を拝領,境内地は2万3,000坪余であった「国志」による文化初年の戸口は,寺内に僧3人・家僕8人,門前に百姓が17戸・64人(男34・女30)寺域内に甲州街道が通り,上りは勝沼宿へ29町,下りは鶴瀬宿へ10町(国志)明治初年寺領制の廃止により勝沼村の一部となる現在の大字勝沼の東端部にあたり,柏尾公民館や勝沼バイパスの柏尾大橋などに名が残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柏尾村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柏尾村(近世) 江戸期~明治9年の村名播磨国印南【いなみ】郡のうち加古川の支流西川が形成した谷底平野の微高地および段丘上に位置するはじめ幕府領,寛永16年姫路藩領,その後幕府領,相模国小田原藩領と変遷し,延享4年からは一橋家領村高は,「正保郷帳」で316石余うち田293石余・畑23石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに332石余天明5年の村明細帳によれば,家数112・人数432,牛17,村の広さは東西390間・南北240間,用水は溜池に依存するが旱魃がちであったことが知られるまた,農間に男は薪を取り草を刈り,女は木綿を織るとある年貢米は近隣の一橋家領の村々とともに芝村から加古川の水運を利用して高砂に運び,江戸・大坂へ積み出した神社は大歳神社・歳神社・稲荷神社・雪彦神社明治9年広尾村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柏尾村(近世) 江戸期~明治6年の村名美濃国恵那郡のうち旗本明知遠山氏知行地「慶長郷牒」「元和領知改帳」では,「かし原村」と記し,村高17石余「正保郷帳」から柏尾村と称し,村高は同帳で17石余,「天保郷帳」で40石余,「旧高旧領」で17石余明治2年の村明細帳では,村高40石余,反別田3町余・畑1町余,家数21・人数104,馬6匹,秣場8か所,御林山2か所,百姓持林10か所,藪2か所,川1筋,高札場1か所,社寺に神明社・八幡社・観音堂・薬師堂があり,農間に男は炭焼をし,また「当村山方ニ御座候」として猪鹿威の鉄砲4丁を所持した明治4年岐阜県に所属同6年横通【よこどおり】村の字となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
柏尾村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」