ケータイ辞書JLogosロゴ 勝見郷(中世)


鳥取県>気高町

 戦国期に見える郷名。気多郡のうち。現在の気高郡鹿野町・気高町の地域に比定される。「親元日記」所載の「政所賦銘引付」文明15年9月27日の項に「寺領因州勝見郷」と見える。寺領とは大坂四天王寺の別院勝鬘院の所領のことで,これ以前から当郷が勝鬘院の領知するところとなっていた。当郷は古代の勝見郷が中世的所領として再編成されて成立したもので,因幡国衙領の一部を構成しており,その成立は平安末期にまで遡ると推定されるが,戦国期以前の領有関係については不明である。先の「政所賦銘引付」によると,当時勝鬘院は勝見郷を抵当にして但馬国美方【みかた】郡楞厳寺の塔頭常楽院から10貫文の借銭をし,その利銭の返済をめぐって常楽院と鋭く対立している。また同じ文明年間と推定される年未詳9月16日および同20日付の2通の某書状(内閣文庫蔵政所賦銘引付所引諸状案文)によると,同下郷の名主2人が因幡国守護と推定される山名治部少輔の被官人になって勝鬘院の在地支配に敵対し,「於郷内種々任雅意之間,可為所務違乱」きことが寺家から幕府に訴えられている。勝鬘院による勝見郷支配は内外ともに困難をきわめていたと思われるが,天正8年7月8日の天野隆重宛吉川元春書状(萩閥2)では勝見郷のうち500石が吉川氏から隆重に知行地として宛行われており,勝見郷が吉川氏の所領となっていることから,勝見郷の支配権は同8年以前に勝鬘院の手を離れていることが知られる。天正4年2月9日の吉川元春寄進状によると,吉川元春はこの日,南条氏の拠っていた宮吉城を没落させた戦勝を感謝して勝宿大明神に青銅300疋を寄進しており,また同8年9月1日付にも戦勝を祈願して同社に10石の所領を寄進している(加知弥神社文書/県史2)。勝宿大明神は延喜式内社加知弥神社の中世における名称であるが,勝見郷が吉川氏の所領となるに及び,その管轄下に置かれたものであろう。なお,先の年未詳9月16日付某書状には「下郷」とあり,戦国期の勝見郷が上・下両郷に分かれていたようであるが,「上郷」の存在を史料的に確認することはできず,あるいは現在の気高町に当たる部分を下郷,中・南部の鹿野町に当たる部分を上郷と呼んだものと思われる。その後近代に至るまで勝見の地名は見られず,現行の気高町勝見は,旧勝見郷内北部の一地域を占めているにすぎない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7407871
最終更新日:2009-03-01




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