- JLogos検索辞書>
- 岸本村(近世)とは
「岸本村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
岸本村(近世) 王府時代~明治36年の村名国頭【くにがみ】方今帰仁【なきじん】間切のうち方言ではキシムトゥという「高究帳」に,きし本村と見え,高頭264石余うち田113石余・畑151石余村の住人湧川は,捌理から地頭職を歴任し,家業巨富にして蓄積も多く,康煕48年(1709)の今帰仁間切9か村の凶作・飢饉に米蔵を開いて救恤し,同54年の公司蔵庫乏少の際にも米・粟を呈上した(球陽尚敬王3年条)集落は,はじめ下古島と呼ばれる大井川左岸に位置したと考えられるが,背後の山から土石流の被害を受けたこともあり,元来日当たりも悪く土地も狭いため,同治元年(1862)玉城【たましろ】村とともに保加麻原(現在地)に移り,跡地には寒水【そうず】村が移動した(球陽尚泰王15年条)移動当時は村再建のため,積極的に移住者を受け入れ,明治初年には湧川・越地からの移住者もあった(今帰仁村史)移動以前,オホヰガワ嶽・岸本ノロ火の神・神アシャギがあり,岸本ノロの祭祀(由来記)岸本ノロは,寒水村の祭祀も管掌した(同前)神アシャギは新集落に移転したが,オホヰガワ嶽は旧地にあり,遠くなった上に,大井川の流れが地盤沈下によって変わったため,川を渡らなければならなくなり,やがて村としての祭祀は行われなくなった明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属明治13年の戸数29・人口169うち男89・女80(県史20)同36年玉城村の一部となる当時の戸数は12戸という |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」