ケータイ辞書JLogosロゴ 境村(近世)


鳥取県>境港市

 江戸期〜明治3年の村名。会見郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高100石余,「元禄郷村帳」178石余,「天保郷帳」216石余(うち新田高115石余),「元治郷村帳」238石余,「旧高旧領」248石余。元禄の本免は3.6,「元治郷村帳」の物成は83石余。戸口は,「伯耆志」330戸・2,023人,「文久3年組合帳」458戸。「伯耆志」によれば,隣村へは,南の上道【あがりみち】村へ8町,西の外江村へ18町,北は海を隔てて出雲国の美保関と対し,その間3町50間,産物には鱸・黒鯛・白貝・海雲などの魚介類がある。また,氏神は余子大明神・八幡宮があり,寺は浄土宗心竜山光祐寺。余子大明神の社は縦2間・横3間,社地は東西6間・南北14間,祭神は稲田姫命・手摩乳命・足摩乳命で小祠が3つあり,神号の由来は,尼子氏が社領を寄進したためとも,あるいは当社に祈願すれば子宝に恵まれたためともいう。また,八幡宮は社が縦2間・横3間,社地は東西22間・南北16間,小祠が5つあり,祭神は応神天皇。同社はのち大港神社と改称。ほかに新八幡宮があり,社は方1間,祭日は9月1日,祭神は亀井能登守安綱。「藩史」5によれば,余子大明神の社領7斗,八幡宮の社領7斗,光祐寺の御免地は境内の東西28間・南北30間。当村は,港としての立地条件に恵まれ,寛永20年に異国船監視のための浜目番所が置かれ,享保4年には抜荷改所に指定された(藩史5)ほか,正徳・享保年間の在方御定には宿場として見える。江戸中期以降,港町として目ざましい発展をとげた。正徳5年には因伯主要港6港のうちの1つに数えられ,制札場が置かれた(県史9)。宝暦13年藩内で最初の諸国廻船相手の飯盛置屋の設置が許可された。宝暦9年に米川の用水堀が開削されて以後,弓浜半島では綿作が発達し綿取引が盛んになった。藩は安永年間から綿専売を強化,繰綿津出し問屋を指定し,当村に繰綿為替融通所を開設した。安永2年,日野川岸から当村までの間の繰綿津役および陸荷の改役には米子の宮本助右衛門・大谷角三郎があたった(県史9)。また,漁業も盛んで「藩史」5によれば,当村は享保8年に小引網3つを所持し,網役銀15匁を上納した。天明2年には,当村の問屋に境浦帆役請運上150匁,境浦諸口銭請運上600匁,文政7年に境浦諸口銭請運上1,400匁が課された。当村は都市型の大村に発展し,商人が多かった。文政11年には大火災が発生し,百姓92戸のほかに日雇39戸・商人30戸・宿屋14戸・職人14戸などあわせて207戸を焼失した(県史11)。天保6年日野郡産鉄の津出し港に指定され鉄山融通会所が設置された(同前)。その後境港は,綿と鉄の輸出港として飛躍的な発展をとげた。為替座の融資金出資者には伯耆国一円の豪農が名を連ね,綿問屋には弓ケ浜各村の豪農・問屋が指定された。文化元年には隣接する上道村の枝郷鼻の地内(境村扱い地)に御廻米役所が新設され,藩船の建造・廻米船基地の役割を果たした。文久元年,船番所が新設され,また,鼻地内には同3年に海岸警備のため台場が築造された。安政5年に宿送継場に指定され(藩史5),同6年には国産塩製造場所となった(県史12)。文久3年以降,毎年春・秋の2度それぞれ2日にわたって金屋子市が開かれた(県史13)。当村には,数多くの私塾が開かれた。弘化3年には木村吉兵衛,嘉永3年には足立台蔵,同5年には池淵玄達,安政元年には奥村鼎・杉山田鶴雄・森久愛,同2年に池淵硯庵,万延元年に上野証造,文久元年に加藤荏翁,同3年に長尾修英,元治元年に上村儀庵がそれぞれ村内の各所に塾を開いた(藩史3)。明治3年上道村枝郷鼻を加えて境町と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7408413
最終更新日:2009-03-01




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