ケータイ辞書JLogosロゴ 下蚊屋村(近世)


鳥取県>江府町

 江戸期〜明治22年の村名。伯耆【ほうき】国日野郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高6石余,「元禄郷村帳」6石余,「元文2年村分帳」7石余,「天保郷帳」7石余(うち新田高5斗余),安政年間7石余,「元治郷村帳」7石余,「旧高旧領」7石余,「元治郷村帳」の物成は100匁余。戸口は,「元文2年村分帳」20戸余,「伯耆志」24戸・113人,「文久3年組合帳」23戸。「伯耆志」によれば,林17町余を有し,産物は椀,産土神は山神で,社地は東西31間・南北22間,社は方4尺,祭日は9月17日,ほかに小祠3がある。正保4年の氏子駈帳に「伯耆下萱木地屋」として18人の名が見え,さらに元和6年,近江蛭谷の大岩助左衛門日記に,助左衛門が当地を訪ねたとき当地の木地屋がわれわれは既に早く木地屋をやめ,現職は塗師屋のため御本社の奉加は引き受けかねるといったとのことが記されている(江府町史)。文政13年の氏子駈帳における記名12人のうち,11人に「ぬしや」とある。弘化3年には丹波国の漆問屋が入り込んでいる(大岩家文書)。正徳2年,下流隣村の助沢村草山への刈込み・開畑をめぐって山論が起こり(助沢区有文書),一連の山論は165年後の明治10年まで続いている。明和5年の洪水で川切れの節村中所替を願い出た(県史9)。文化6年には庄屋役6名の輪番制を記録している(県史10)。享保年間には日本三大牛馬市といわれた大山【だいせん】牛馬市が開かれるが,この市への道筋ははじめ美作【みまさか】国から助沢村を経由していたが,次第に,短距離となる当地を通るようになり,宿場的な要素が加わって婚姻・経済圏は主として美作地方に伸展した。享保4年抜荷改所に指定され,慶応元年には木戸が設置された(藩史5)。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治6年に下蚊屋学校が開校し,同7年の教員数1,生徒数15(男12・女3),授業料月3円41銭7厘(県史近代5)。江戸期から農業への依存度を高めてきたが,陶磁器の出回りによって木地屋の仕事は一大転換を迫られ,明治16年には漆器年産収入100円以上の者4戸が同18年には20〜30円台に落ち込む(県統計書)。大岩八郎治は,同19・20年にわたり本谷川から水路を引き,地内山王原へ13町歩の新田を開き,以来村をあげて農業へ転身した。同22年米沢村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7408426
最終更新日:2009-03-01




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