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鳥取県>鹿野町

 戦国期に見える地名。因幡【いなば】国気多【けた】郡のうち。永禄7年8月2日毛利元就書状(萩閥遺)に「去月廿二日於鹿野麓合戦之時,御粉骨候」と見えるのが文書によって確認できる明確な初見。ここにいう「鹿野麓合戦」とは,妙見山鹿野城に拠る尼子勢を毛利方が攻めたことを示し,この城はもと志加奴氏代々の居城であったのを,天文13年2月に尼子晴久が攻めて落としたのだという(陰徳太平記・県史2)。当地は「因伯為仕切之城」(年未詳9月22日毛利輝元書状/萩閥3),「伯州・因州境鹿之(野)城」(元和8年3月5日小川信秀付立/萩閥2)などといわれるように,山陰道の交通の要衝に位置し,因伯支配をめざす諸軍勢により,たびたび争奪の中心点とされた。天正元年因伯を平定した毛利氏は野村信濃入道を城番となし,鹿野の内において300貫の地を与えた(年未詳8月23日国司元武外四名連署書状/萩閥3)。しかし,これ以後再挙し因幡に乱入した尼子勢に攻められ,天正9年には兵粮も底をつき(年未詳5月16日吉川経家自筆書状/吉川家文書・大日古9-別),同年10月には豊臣秀吉が入城し,新たに尼子の遺臣亀井茲矩が鹿野城主に任じられた。以後鹿野城は亀井茲矩が元和3年石州津和野に転封されるまでその城主をつとめ,城郭・城下とも改築・整備され,近世城下町へと大きく成長したという(県史2)。現在も山麓に本丸・二の丸・内濠・外濠・薬研堀などの遺構が見られ,かつての城下町地域には「殿町」「御茶苑」「堀端」「鉄砲屋」「的場」「鍛冶町」「大工町」「紺屋町」「成徳寺前」「観音寺前」などの小字名が多く残されていて,中世末期鹿野城下の様子を思い浮かべることができる。「荘園志料」は気多郡内の荘園として「鹿野荘」をあげ,「郡中閉野・末持・水谷三村,及鹿野町を総称す」と記しているが,鹿野荘なる荘園の存在を史料によって確かめることはできず疑問がある。鹿野城は別名王舎城ともいい,ここには同じく尼子氏の旧臣山中幸盛(鹿介)を祀る幸盛寺もある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7408500
最終更新日:2009-03-01




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