ケータイ辞書JLogosロゴ 田後村(近世)


鳥取県>羽合町

 江戸期〜明治22年の村名。伯耆【ほうき】国河村郡のうち。鳥取藩領。村高は,拝領高931石余,「元禄郷村帳」1,039石余,「天保郷帳」1,037石余(うち新田高105石余),「元治郷村帳」1,050石余,「旧高旧領」1,087石余。元禄の本免は5.4,「元治郷村帳」の物成は512石余。戸数は「文久3年組合帳」148戸。宝暦年間の村の状況は,悪田并定加損20石,藪役銀17匁7分,棟11軒役高220人役,人数403,氏神は大宝天王(河村郡村々諸事控/近藤家文書)。大宝天王は素盞嗚尊を祀り,末社に八幡宮・荒神の2社,摂社に八大荒神・三宝荒神の2社があった(嘉永3年神社改帳)。宝徳2年出雲国八重垣神社から勧請したと伝えられ,年号にちなんで大宝天王と尊称したが,明治5年田後神社と改称。当神社には毎年11月朔日に当屋を引き継ぐ当渡しの神事が伝承されている。文化5年,寺子屋が開設されたが天保5年廃業(藩史3)。文久2年8月鳥取藩主池田慶徳が伯耆巡視の際は当村大庄屋椿岩助宅が本陣とされた。慶応の初め田後村の富農椿岩助・椿半十郎らが桑園数町歩を開き養蚕を始めた。田後笠と呼ばれる菅笠は古くから田後の特産で,田後神社勧請の際に出雲地方より菅苗を持ち帰り社地に植えて笠縫いを始めたと伝えられる。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治5年の物産書上書によれば菅笠8万枚を輸出している。同7年田後学校を設立,同年の教師数1・男生徒20・女生徒6(県史近代5)。同18年,道路改修により国道が地内を通過するようになった。同22年長瀬村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7408882
最終更新日:2009-03-01




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