ケータイ辞書JLogosロゴ 長瀬村(近世)


鳥取県>羽合町

 江戸期〜明治3年の村名。河村郡のうち。長瀬宿ともいう。鳥取藩領。村高は,拝領高1,548石余,「元禄郷村帳」1,935石余,「天保郷帳」2,023石余(うち新田高474石余),「元治郷村帳」2,266石余,元禄の本免は5.8,「元治郷村帳」の物成は979石余,「旧高旧領」2,340石余。戸数は「文久3年組合帳」204。宝暦年間の村の状況は,悪田加損10石,海役銀30匁,川役銀55匁,棟29軒役高580人役,小猟船6艘の運上銀18匁,鰯網3側・古網3側・新網の運上銀100匁,天神川渡19石6斗,人数866,氏神は一宝大明神,寺は浄土真宗勝福寺がある(河村郡村々諸事控/近藤家文書)。享保9年,当村ほか4か村と下橋津(橋津)村との間に上橋津村分領の草山入会をめぐる争論が発生(県史9)。宝暦6年直右衛門以下4人に鰯の新網が許可された(同前)。伯耆往来が通過する当村は承応4年宿駅となり,馬15疋を常置し制札もたてられた。駄賃は,1駄荷32貫目・乗掛16貫目,長瀬村から泊村まで2里の駄賃銀1匁3分,大塚村まで3里11町の駄賃銀1匁8分(銭は1里40文,但し難所は48文),歩持は8貫目,日用賃は1里に付2分(難所は2分5厘),また宿賃は主人と馬が16文ずつ,下人8文(藩史5)。寛文4年牢舎,宝暦10年目安箱が置かれ,安政3年には脇往還御用状取次に指定された。なお,宿駅の困窮を理由に人馬賃銭の割増を求める訴訟が幕末にたびたび起こっている。天保15年2月には2か年間5割増(県史12),弘化3年2月には5か年間5割増(同前),元治2年8月には5か月間10割増(県史13)が認められた。天神川には渡船場があり藩給の渡守がいた。幕末の御船々并渡船帳に天神川渡船2騎立1艘・艪1挺と記す。安政年間この渡し場に与四郎橋と呼ばれる仮橋が架けられた。集落の北に広がる砂丘地は江戸期の中頃から浜井戸灌漑による畑作が行われていたが,天神川開削後はその右岸や低平な浜畑に引水し新田を開くようになった。なかでも嘉永年間に大庄屋戸崎文之右衛門が開発した浜新田は35町歩に及び,その用水を引くため巌城村(現倉吉市)田内地内に石巻堰を築いた。この工事は戸崎家の姻戚にあたる汗入【あせり】郡今津村(現淀江町)田中六郎兵衛が行ったので今津堰と称した。新田の開発に伴って他村からの入植者も増加し,新川・浜の出村が成立した。安政7年12月長瀬一揆が起こり,400人の農民が大庄屋戸崎文之右衛門宅を打毀し,ついで本家戸崎久右衛門宅をも襲撃しようとした。11人が捕えられ首謀者の七右衛門は文久3年に梟首された。当村生まれの利七は船乗りを志し,播磨国(兵庫県)大石村松尾八三郎持船栄力丸の水主となった。嘉永3年日本近海で遭難漂流中にアメリカ船に救助され乗組員17人はサンフランシスコで1年ばかり過ごしたのち,同5年便船を得て香港に帰着,ここで再びアメリカ留学を決意した彦太郎(ジョセフ・ヒコ)ら3人と別れた。残留者は清国にいた乙吉という日本人の計らいで,安政元年帰国した。生まれつき旺盛な記憶力をもっていた利七は藩校尚徳館につとめ,名を佐伯文太と改めて,自ら見聞した外国事情を紹介したが,明治2年当村で死亡。氏神一宝大明神は宝徳元年に勧請したと伝えられ,摂社に岩田荒神・相田大明神・若宮荒神・三宝荒神の4社があった(嘉永3年神社改帳)。明治5年摂社を合祀して長瀬神社と改称。大洪水のとき流れついた神像を祀ったと伝えられる相田大明神(一説に島根県鹿島町佐太神社から勧請)は田の神「相田さん」として農民に信仰されてきた。旧暦2月15日ここで相田市が開かれ藁製品をはじめ農具・日用品・苗木などが売り出される。一向宗勝福寺は天正年間に無量院釈教正が天台宗より改宗し開基したと伝えられる。当寺は創建以来地方に教勢を拡げ,村民のほとんどが門徒信者となった。享保7年・嘉永7年の2度の大火で主要伽藍のほか古記録をことごとく焼失した。嘉永の大火では同時に民家60戸を全焼したといわれる。同寺が本格的に再建されたのは14世若原観瑞のときで,廃寺となった鳥取の顕功寺(荒尾但馬守の菩提寺)を買い取り,明治7年に上棟した。長瀬観音堂には一木彫の古仏像が残っている。明治3年長瀬宿と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7409198
最終更新日:2009-03-01




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