ケータイ辞書JLogosロゴ 橋津村(近世)


鳥取県>羽合町

 江戸期〜明治22年の村名。河村郡のうち。江戸前期までは湊村と呼ばれたが,正保2年藩倉の創設により繁栄するようになり,次第に橋津と通称されるようになった。公式には嘉永7年領内限りで橋津村と改称したという(藩史5)。橋津宿ともいう。鳥取藩領。村高は,拝領高18石余,「元禄郷村帳」18石余,「天保郷帳」54石余(うち新田高35石余),「元治郷村帳」62石余,「旧高旧領」66石余。「元禄郷村帳」「天保郷帳」には湊村と見える。元禄の本免は7.1,「元治郷村帳」の物成は33石余。戸数は,「文久3年組合帳」305戸。宝暦年間に成立した河村郡村々諸事控(近藤家文書)によれば,湊村と見え,定加損5石5斗,棟役高は免除,人数906(禅門比丘尼6・医者2・神職家内2を含む),運上銀は廻船30艘272匁2分・大猟船12側10匁・梶船7艘12匁・川船66艘300目・鰯網1側13匁・引網1側10匁。または問屋4軒,御蔵12棟があり,氏神は湊大明神,寺は浄土宗西蓮寺と法華宗実相寺,ほかに伯耆西国三十三番霊場第14番札所があった。慶安4年には宿駅となり,制札もたてられた。元治2年8月には宿駅の困窮を理由に人馬賃銭の5年間10割増を求める訴訟が起こり,認められた(県史13)。また時期は不詳だが,宝暦5年に長瀬村に設置された目安箱が,のち当地に移された。正保2年,舟運の便利な当地に藩倉が創設された(江戸末期には16棟あり,2棟が現存する)。同倉には河村郡のうち79か村,久米郡のうち31か村から毎年5万俵余の年貢米が収納されたが,倉吉蔵納米のうち藩士の家禄を給与した残米もまた橋津藩倉に回送され,貯蔵輸出に備えられた。倉の警備は平素から厳重で,倉に仕える人夫37,8人,各村からの人夫300人余が交替で責任分担して警備し,火消用具を完備した(羽合町史前編)。東郷池岸や天神川沿岸の村から出される年貢米を川舟によって運ぶ仕事は「役目札」を持つ当村民の特権で,廻米津出しも村民の専業であった。米を積み出す人夫たちは声をそろえて「葉茂し唄」を歌った。当村には近郷はもとより他国からの移住者も増え,船頭や商人の出入りするにぎやかな港町に発展していった(同前)。嘉永5年12月,当村の灰吹屋次郎兵衛は国産の木綿方融通所の取扱いを仰せ付けられた(県史13)。同7年7月,当村直三郎は砂糖きびの苗植付に成功し,国産役所手掛を願い出た(県史12)。文久3年鳥取藩は海岸防備を固め橋津にも砲台場を築いた。縦50m・横138mの長方形の台場には火砲4挺が配置され農兵が警備にあたった。慶応2年橋津村中原吉兵衛・田中邦十郎は因幡二十士の脱出を助けて橋津川河口から出帆し,美保関を経て手結浦【たいのうら】(島根県鹿島町)に寄港したが,ここに人質としてとどまった吉兵衛の長男忠次郎と詫間樊六ら4人の志士は追跡してきた仇討隊の手にかかり悲壮な最期を遂げた。氏神の湊神社は速秋津彦命を水門の神として祀り,「三代実録」に記載されている古い由緒をもつ神社で,古くは大湊宮といった(伯耆国河村郡東郷荘下地中分図)。正応2年色見山から大宮地に遷座,天明6年の湊村大火で本殿を除く社殿を焼失したので,その上の現在地に移した。寛永9年池田光仲から社領年米50石の安堵状を受け因伯太守御祈願所とした。末社に三宝荒神・天満宮・若宮の3社と摂社竜神宮があった(嘉永3年神社改帳)。明治3年郷社となる。湊神社の秋祭りに行われる神幸式は宝永元年に始められたと伝えられ,神輿をはじめ,2台の花車【だんじり】を先駆とする勇壮な行列と橋津川を渡る舟御幸の豪華な行事が繰り広げられる。浜屋敷に鎮座する竜神宮の塩川祭は宝暦7年,藩命により御蔵内繁栄・御米廻船海上無難を祈願するために始められた。浄土宗西蓮寺はもと上橋津村にあり,京都の春道(覚蓮社本誉と号す)が開山したと伝えられる。天正12年橋津川の合戦で焼かれ,慶長18年再建のとき橋津に移った。本堂前には宝暦7年に造立された丈六の地蔵菩薩像がある。この大地蔵は数々の奇跡をあらわしたとして近郷の人々の篤い信仰を集めた。供物を捧げて踊れば病気平癒などの願いが聞きとどけられるといわれ,7月23日の夜を踊り明かす地蔵会が毎年行われる。この踊りは「茶町おどり」として伝承されている。実相寺は享保3年橋津村の灰吹屋宗近が法華宗に帰依し,一庵を結んで朝夕勤行を精進したことが発端で,宗近の死後その子七郎左衛門,庵主普門院日が米子妙善寺の廃寺を買い求めて当地に創建したもの。はじめ鳥取芳心寺の末寺であったが,元文3年京都本山妙顕寺の直支配となる。門前にある庚申堂はもと西蓮寺の末庵で明暦3年3世宗誉長岌和尚が帝釈天の霊夢によって勧請したと伝えられる。滝尻近くの崖上にある瑞観堂も西蓮寺の末庵で十一面観世音菩薩を祀る。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。明治6年橋津学校を設置,翌年の教員数2・男生徒数64・女生徒数8(県史近代5)。同6年第9大区会所,同16年に第2連合戸長役場が当村に置かれ,明治維新当時における地方政治の中心地となった。明治12年の戸数349・人口1,443,牛1・馬5,日本形船174(共武政表)。同15年倉吉警察署橋津分署が設けられ,同20年に新築された庁舎は洋風2階建のモダンな建物であった。藩倉は明治4年の廃藩置県により官倉になった後も貢租米の収納に用いられ,同8年の地租改正後は代米納や貢租抵当預り米制度の米穀が保管された。官倉に入れられたこれらの供託米は橋津港から移出された。同9年3〜9月のうち63日間に積み出された米は2万俵余で,1日平均332俵,最高1日に1,213俵であった。米の運搬賃は1俵につき玄米2合で,これが村民の唯一の現金収入であった。明治14年の港湾調べによると,商船出418隻・入434隻,貨物出9,352円余・入2万3,516円余,主な輸出品は米・木の皮・生糸で,輸入品は塩が大半を占め食料品・日用雑貨・衣料品などであった。地利米の換金に困った地主たちは明治10年官倉の一部を借り受けて共同倉庫を設立し,抵当貸付の方法で金融の便をはかったが,同14年に創立された奨恵社はこれを受け継いで金融・倉庫業を開始し,その益金で窮民救助を行った。同22年橋津村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7409431
最終更新日:2009-03-01




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