ケータイ辞書JLogosロゴ 橋津村(近代)


鳥取県>羽合町

 明治22年〜昭和28年の自治体名。はじめ河村郡,明治29年からは東伯【とうはく】郡に所属。橋津・上橋津・赤池・宇野の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。明治24年宇野が分離して宇野村になったため3大字となる。世帯数・人口の推移は,大正9年302・1,424,昭和5年292・1,305,同25年314・1,402。藩倉廃止後も橋津港の海運業は盛んで,船頭たちは境通いの小廻船や門司通いの和船で日本海沿岸や瀬戸内海沿岸の港まで航海した。明治42年6〜12月の橋津港における海運貨物輸出額11品目・7万871円,輸入額62品目・5万2,228円で,主な輸出品は玄米・松丸太・生糸・漁網,輸入品は砂糖・石油・大豆・塩魚・刻昆布・メリケン粉・綿糸紡績・瓦・大豆粕・カズノコ・蒸鰮であった。同45年は輸出入額とも最高に達したが,国鉄山陰線全通後の大正2年には一変して激減し,同8年には輸出が途絶した。海運業の衰退に伴い橋津村も次第に活気を失っていった。奨恵社は明治27年金融・倉庫業を経営主体とする奨恵合資会社を設立,同45年株式会社奨恵銀行に改組し,その倉庫部は大正8年社団法人奨恵社農業倉庫となった。奨恵社の倉庫業は米穀の共同販売のほか米製改良に努めたため「橋津米」の名声を博した。明治38年5月27日橋津大火で民家63戸と浜倉8棟を焼失。明治17年市川為次郎によって開局した橋津郵便局は同30年電報取扱開始,大正10年電話の通話開始,加入数40。大正7年はじめて電灯がつく。昭和10年日ノ丸自動車株式会社の定期バスが橋津線運行開始。昭和28年羽合【はわい】町の一部となり,村制時の3大字は同町の大字に継承。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7409432
最終更新日:2009-03-01




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