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東村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
東村(近世) 江戸期~明治7年の村名石見国美濃【みの】郡のうちはじめ幕府領で,益田【ますだ】領匹見【ひきみ】組元和5年から江戸期を通じて,浜田藩領のうち匹見組に属す村名の由来は匹見の東にあることによるという(八重葎)検地は明暦2年・明和元年で,明暦2年の村高は463石余,戸数は154「石見国高郷村帳」では468石余,「天保郷帳」では506石余浜田藩主古田兵部大輔重恒の時,西村より村内の山根田屋原に代官所を移転美濃地彦左衛門就任の頃,松平周防守が支配するようになると代官所が廃止となり,代官は浜田在勤となる当村では本多家が江戸中期より庄屋を世襲社寺は例祭日を9月24~25日とする匹見八幡宮,浄土真宗本願寺派竜光山善正寺・浄土宗鎮西派和田寺がある善正寺は室町期に劉道器の創建による説と,慶長12年創建との2説があり,もと安芸佐伯郡吉和【よしわ】村にあったが,匹見地方に檀家が多いので,当地に移転したものである天保9年より10年ほどの間同寺の住職を務めた無着には詩集「春夢庵詩抄」上・下2巻がある和田寺は元禄の頃には石見三十三か所の札所となっていたが,文化3年・文久2年の火災にあうなどで次第に衰退していった産業はソバ・コウゾなどの栽培が焼畑を利用してなされていたまた紙漉も行われていた匹見組の山守役所(もとは番所と称していた)は当村に置かれていた天保7年には匹見川沿いの田地・井手・橋などが流失嘉永2・3年にも洪水があった安政6年の大地震には社倉囲籾108石余を借りてしのいだ天保3年に上納紙の不満から百姓一揆が起こった同8年には飢饉の被害が大で,米を要求していさかいが起こったが番所方の説得で鎮まった慶応2年~明治2年は長州藩預り地明治3年に浜田に発した百姓一揆が,当村にも波及,一同は八幡宮に集まったが大事にならず解散した同7年7月に広見河内村と合併して匹見村となる... |
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