ケータイ辞書JLogosロゴ 母木村(近世)


鳥取県>気高町

 江戸期〜明治10年の村名。因幡【いなば】国気多【けた】郡のうち。母木宿ともいう。鳥取藩領。村高は,拝領高311石余,「元禄郷村帳」363石余,「天保郷帳」358石余(うち新田高82石余),「元治郷村帳」383石余,「旧高旧領」390石余。元禄の本免は4.8,「元治郷村帳」の物成は168石余。戸数は,「因幡志」30,「文久3年組合帳」57。元禄14年酒津村を編入したが,同村は享和3年新田として幕府に届けられ,天保5年分村する。また,枝郷に新町村があったが,元禄14年に分村した(藩史5)。近世初頭から伯耆【ほうき】街道の宿駅であったが,主に宿駅としての機能は新町村が果たしていたため,新町村の分村とともに宿駅機能は新町村に移った。ただし,新町村の宿駅は幕末まで母木宿と呼ばれた。「稲葉民談記」によると,当村では雁・鴨をうち,川で鮭・鮎を獲っていた。元文5年「流し山」による山小鉄(山砂鉄)の採取が流域の水田に公害を与えるという理由で,宝木砂丘の浜小鉄(浜砂鉄)の採取が河内村の人々によって行われた。近世中期は半農半漁で地引網漁も盛んであり,近隣の村々との争論もしばしばで,元文6年6月には酒津村と口論をおこしている。近世後期になると河内川河口付近の低湿地や砂丘地帯の新田開発が盛んとなり,文化12年4月には鳥取藩も和田又市新田の検分を行い,また万延元年には富山甚右衛門が砂流の許可を得て大量に砂丘を流し飛砂の動きをとめて新田開発を行っている(母木新田早牛新田記)。地籍図をみると東和田新田・西和田新田・長助新田・母木新田・下母木新田・草屋新田・大吉新田などの地名が検出され,河内川河口付近や宝木砂丘で多くの新田開発が行われたことが判明する。氏神は奥沢見村にある板屋大明神,寺は曹洞宗雲谷山天竜寺があり,洞松寺の末寺で,寺領4石5斗4升(因幡志)。天竜寺は文明元年奥沢見村から当村に移転したという。また,地内には八幡宮があり,明治元年母木神社と改称した。明治4年鳥取県,同9年島根県に所属。明治5年の農業139戸・商業34戸・工業8戸・日雇12戸・馬方3戸・油屋3戸・紺屋3戸・医師1戸。同7年母木小学校が天竜寺を校舎として開設,生徒数62(男60・女2),教員数2,授業料月99銭6厘(県史近代5)。同10年宝木宿と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7409773
最終更新日:2009-03-01




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