ケータイ辞書JLogosロゴ 飯田郷(中世)


島根県>益田市

 鎌倉期からみえる郷名。飯多郷とも書く。石見国美濃郡に属す。南北朝末期まで長野荘,のち益田荘のうち。建仁3年12月の「藤原(益田)兼季申文案」(益田家文書/鎌遺1418)に「長野庄内飯田郷」とみえるのが初見。貞応2年3月の「石見国田数注文」(益田家文書/鎌遺3080)には,長野荘の一部として「いく(いカ)田の郷 卅九丁四反小」とある。同年5月25日の「関東下知状案」(益田家文書/鎌遺3108)では,「兼季三代知行」ということで飯田郷地頭職が兼季に安堵されたが,南北朝期には一時益田氏の手を離れて長野荘惣政所虫追氏の支配下に置かれたらしく,康永3年8月17日付の「某安堵状」(益什82)では,長野荘内飯田・市原・高津などの郷務が虫追政国に安堵されている。南北朝末期再び益田氏の手に復し,以後その支配は戦国期まで続く。「長野庄内飯田郷」という表記は永徳3年8月10日付の「益田祥兼置文条々」(益什73)をもって終わり,これ以後は益田荘の中に組み込まれる。このことを示す初見史料は応永18年12月13日付の「足利義持安堵御教書」(萩閥7)で,「石見国益田庄本郷 号益田郷(中略)飯田郷」とある。南北朝末期・室町初期に益田荘の再編成が行われた結果と考えられる。当地域は天文19年に検地が行われたが,ここには現在も「津久田(佃)」「三事給(散使給)」などの小字名が残っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7410609
最終更新日:2009-03-01




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