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岩倉(中世) 南北朝期から見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岩倉(中世) 南北朝期~室町期に見える地名山城国乙訓【おとくに】郡のうち岩蔵とも書く京都市西京【にしぎよう】区大原野石作町岩倉にあたり,同町の西部に岩倉山,また善峰寺川の支流に岩倉川の名が見えるここには西岩倉山金蔵寺があり,はやくから西岩倉といわれていた金蔵寺は千手観音を本尊とし,元正天皇の勅願所として養老2年,隆豊禅師が開創した(永禄13年4月15日正親町天皇綸旨/金蔵寺文書,元亀2年7月慶什阿闍梨勧進状/曼殊院文書)桓武天皇が平安遷都にあたって,その四方に経文を納めさせたときの1寺に選ばれ金蔵寺という榜を賜ったその後荒廃したが,良源の弟子賀登が再興したという(金蔵寺縁起/山城名勝志)「雍州府志」巻1山川門の北岩倉の項には,王城鎮護のため平安京の四方の山上に経を納め,これを岩倉といった南は不明だが東北西は現存すると記しているすなわち北岩倉山は左京区岩倉に,東岩倉山は大日山ともいって左京区粟田口にあるそれに対してここが西岩倉山である「今昔物語集」巻17に「京ノ西山ニ西岩蔵ト云フ山寺有リ,其ノ山寺ニ仙久ト云フ持経者住ケリ」とあり,平安期の終わり頃には西岩倉の名が広く知られていたことを知る降って正中2年11月25日承鎮法親王付属状(三千院文書)によれば,中堂領の1つとして「山城国金蔵寺」が記載されているここは京都西郊の台地にあった関係から,中世以降軍事上の要地としてしばしばその名を見る元弘3年3月15日の西岡における合戦の模様を記した「太平記」には「六波羅勢,敵此マデ可出合トハ不思寄,ソゾロニ深入シテ,寺戸ノ在家ニ火ヲ懸テ,先懸既ニ向日明神ノ前ヲ打過ケル処ニ,善峰・岩蔵ノ上ヨリ,足軽ノ射手一枚楯手々ニ提テ麓ニヲリ下テ散々ニ射ル」とあるまた同4月27日の合戦についても「坊門少将雅忠朝臣ハ,寺戸ト西岡ノ野伏共五六百人駆催シテ,岩蔵辺ニ被向」と記されている応仁の乱においても事情は同じであったこの戦乱に東軍の一員として参加した野田泰忠の軍忠状の応仁元年9月条には「同十六日着陣岩蔵山,同十七日八日合戦」と見える(別本前田家所蔵文書)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
岩倉(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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岩倉(中世) 室町期に見える地名安積【あさか】郡のうち室町期頃と推定される安積南郷北郷田地注文に「北郷」のうちとして「岩倉 十丁」と見える(相殿八幡神社文書/県史7)中通り中部,現在の郡山市湖南町福良字岩ノ倉に比定される... |
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