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- 大池村(近世)とは
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大池村(近世) 江戸期~明治5年の村名日向国児湯【こゆ】郡のうち小池とも書く国光原の洪積台地と,平田川支流中須川・綿打川流域に位置する高鍋藩領城附地野別府【のびゆう】のうちの川南郷に属し,川南郷庄屋の管轄下にあった村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(川南町史)および元禄11年「日向国覚書」にはともに366石余,「天保郷帳」には468石余,嘉永7年「領知郷村高辻帳」(日向国史下)には366石余村内は門【かど】と呼ばれる集落に分かれていたが,寛保3年の小城家の知行目録(小城家文書)には「新納院野別府川南村之内坪付之事」として大池門が記されている宝暦8年,大池村より南側など数か所が御鷹場鉄砲留と定められているまた村内には藩の竹山があり,竹山留の管理下に置かれた(川南町史)明治2年村内に小池郷学が設置され,蒙養師隈江誠之丞らの名が見える(同前)明治4年高鍋県を経て,美々津県に所属同5年川南村の一部となる村域はあきらかでないが,ほぼ現在の川南町の南西部にあたる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大池村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大池村(近世) 江戸中期の村名魚沼郡のうち十日町村8か村の1つ信濃川右岸,田川上流の魚沼丘陵の山間地名は,現在もある大池のほとりに開かれたことによるはじめ高田藩領,天和元年からは幕府領村高は,「正保国絵図」17石余,「天和高帳」では十日町村1村として見え,「元禄郷帳」では大池村32石余天和検地では反別田3町余・畑8町余,のち宝暦6年新田検地で新たに高20石余(田1町余・畑6町余)を高請する元禄7年改村鑑によれば,家数13・人数94,馬6文化2年の家数27(新編会津)鎮守は弁財天山間の村柄で,農業のほか縮を少々織り出したまた,大池では蓮を産出したという(同前)江戸中期に十日町村の一部となったと思われるが(天保郷帳),その後も独立して扱われることもあった... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大池村(近世) 江戸期~明治9年の村名合志【こうし】郡のうち熊本平野北部の合志台地北西部に位置する村名の由来は,地内にある周囲約700mの池を大池と呼ぶことによる昔,聖徳太子が肥後に造った5か所の池の1つという(肥後国誌)熊本藩領村高は,「寛永郷帳」では「下庄大池村」と見え80石余,「正保郷帳」も同高でうち田18石余・畠62石余,「天保郷帳」も80石余,「旧高旧領」111石余「肥後国誌」によれば竹迫【たかば】手永に属し,高111石余,神社などに牛王宮・地蔵堂などが記される鎮守は大池神社熊本県を経て,明治5年白川県に所属同9年御代志村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」