ケータイ辞書JLogosロゴ 懸合郷(中世)


島根県>掛合町

 戦国期にみえる郷名。出雲国飯石郡のうち。永正7年3月11日付の佐波惣領誠連の赤穴郡連(久清)宛の感状中に,「今度於懸合之面」(萩閥)とみえるのが初見。大内・尼子・毛利3氏の抗争の際には軍勢の陣地・行軍路中の地名として散見する。天文11年の大内義隆の出雲攻めの際には,「経懸合三刀屋,十一月初被成宍道陣替」とある(忌部総社神宮寺根元録/旧県史8)。毛利の尼子攻略の際には,毛利隆元が懸屋(日倉城)に駐留していたことが,永禄5年12月の「毛利元就書状」にみえる(兼重家文書/萩閥2)。田辺通政は,永禄4年4月の来島の役の軍功により,同6年6月28日には「多賀山(山内)通定宛行状」(田部文書/新県史史料編1)で新給地をあてがわれ,「為新給,雲州懸合郷坂本村之内を以壱貫前申付候」とみえる。また井上八郎右衛門も,同日の「通定宛行状」(岸文書/広島県史古代中世資料編)で新給地をあてがわれ,「以連々忠儀之旨,為新給,雲州懸合殿河内村之内を以三貫前遣之候」とみえる。次いで元亀元年と推定される2月7日付の「小早川隆景書状」と同日の「口羽通良書状」に掛合城には毛利氏の軍勢が城番衆として守備している旨がみえ,出雲における毛利方の重要な拠点となっていた(毛利家文書/大日古8)。同日付の湯原元綱宛の「小早川隆景書状」(湯原家文書/萩閥3)には,尼子勢に包囲されていた富田【とだ】城(守将天野隆重)救援のため,備後衆を率いて赤穴より出雲へ入った隆景が,「懸合之内氷之上,禅定寺河副(久盛)相抱候城両所」を攻め落としたと記されている。天正17年9月3日の堀江越後守定順宛の「多賀山通信契状」(堀江家文書/広島県史史料編)に,「一 懸合代官職之事,其方仁申付候」とみえ,同18年2月11日の堀江太郎兵衛宛ての「通信宛行状」(同前)には,「為給地,杉谷正右衛門先給懸合梅原之内を以,五貫文之地自当年相計候」とみえる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7411348
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ