ケータイ辞書JLogosロゴ 郡村(近世)


島根県>五箇村

 江戸期〜明治37年の村名。隠岐国穏地【おち】郡のうち。江戸期は幕府領松江藩預り地,貞享4年〜享保5年は幕府領大森代官所支配地。貞享5年「隠州記」では村高156石余,うち田方12町3反余で128石余,畑方11町余で28石余,他に新田畑14石余。家数41・人口196,牛65・馬27。寺社は真言宗松尾山幸福寺・山神大明神・客大明神・荒神大明神・八幡宮・熊野三社権現がある。「天保郷帳」では村高176石余,うち田方138石余・畑方38石余。明治元年「隠岐国村鑑帳」では村高176石余。「稼ぎに男は農業の間に薪材木少々伐り出し,雲・伯・若・長・越前へ売り,秋には榧【かや】の実を取り近国へ売り,漆の実生じ候う年には近国へ売る。女は野菜を取り糧に用い,着用入布を掛く」と生業を記す。同4年島根県,同年鳥取県,同9年島根県に所属。同7年に一宮【いつく】村を合併。「皇国地誌」によると,田40町余・畑20町9反余・山林95町余・切替牧畑10町余で,戸数55,男112・女117,計229人,雄牛8・雌牛40・雄馬2・雌馬6。水若酢【みずわかす】神社は同4年に国幣中社となり,北向神社と熊野神社は村社である。水若酢神社は「続日本後紀」承和9年の条に「穏地郡水若酢命預宮社」とある。排仏毀釈のため幸福寺は同4年に廃寺となった。物産については記入がなく,農業のほか,医2・工2・木挽1がいた。同34年の戸数は91・人口416。同12年に山田村と連合して郡ほか1か村戸長役場を置き,同17年には,伊後【いご】・山田・郡・小路【こうじ】・那久路【なぐじ】の5か村が連合して,郡ほか4か村戸長役場を郡に置いた。同37年穏地郡五箇【ごか】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7411949
最終更新日:2009-03-01




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