ケータイ辞書JLogosロゴ 都万路村(近世)


島根県>五箇村

江戸期〜明治7年の村名隠岐国穏地【おち】郡のうち小路【こうじ】川の上流部に位置する山村江戸期は幕府領松江藩預り地,貞享4年〜享保5年は幕府領大森代官所支配地貞享5年「隠州記」によると村高70石余,うち田方は4町7反余で56石余,畑方は9町4反余で14石余,他に新田畑1町2反余で5石余家数は15,12軒が百姓で,3軒は間脇,うち8軒が御役目屋敷である男44人・女43人・禅門2人,計89人,牛15・馬12真言宗多宝寺・山王権現・山神大明神があり,入会の中野山から材木を切り出していた「天保郷帳」では村高77石余,明治元年「隠岐国村鑑帳」も同じく村高77石余戸数は13・人口85,うち男41・女44,牛馬ともに13頭ずつとあり,貞享に比して戸数で2戸,人口で4人,牛馬で1頭を減じているまた「此村用水小谷の出水を引き,少しの旱にも旱損あり,雨繁き年は水損あり」「山方にて賑いなし,日請悪敷諸作物不熟勝にて困窮之村なり」とあり,「農業の間に材木薪少しずつ伐出して売り,秋は榧【かや】の実取り近国へ売る女は着用の布少々ずつ織る」と記している同4年島根県,同年鳥取県,同7年穏地郡小路【こうじ】村に合併
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7412894
最終更新日:2009-03-01




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