ケータイ辞書JLogosロゴ 富田荘(中世)


島根県>広瀬町

 鎌倉期からみえる荘園名。出雲国能義【のぎ】郡のうち。平安末期の仁安2年の「兵範記」の紙背に,「出雲国富田御庄申 注文二通」(年未詳3月15日付木工頭藤原邦綱書状/平遺4749)とみえるのが初見。文永8年11月の「関東御教書」(千家文書/鎌遺10922)には「杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番事」の13番に属する荘名の1つとして「富田庄九十九丁四反六十歩」とみえ,地頭は信濃前司とある。信濃前司は佐々木泰清で,隠岐・出雲両国の守護職であった。嘉元3年4月頃のものと思われる摂籙渡荘目録(九条家文書/岐阜県史史料編古代中世4)によると,当庄は平等院領の1つとして記されているが,実質は式部大輔在輔が領しており,年貢として鉄2530廷・莚300枚・比皮100井を進納していた。当庄がいつから藤原家領になったかは明らかでない。佐々木氏領となる前は当荘内に富田八幡宮があって,大きな勢力をもっていたという(広瀬町史)。鎌倉期以後は佐々木氏の領有するところで,文和3年4月8日の譲状に佐々木道誉の所領としてみえる(佐々木文書/荘園志料)。「佐々木家譜」の佐々木信高の条に,「康暦二年三月八日,於富田荘新宮城討死」とあり,合戦が行われたことがわかる。佐々木氏が領したのは富田本荘と思われ,文永8年11月の「関東御教書」には6番の荘名に「富田新庄比田三十丁 村上判官代入道」とみえる。当荘園内には富田城が築城されていたと思われ,以後代々出雲国守護が居城地としたという。明徳の乱ののち,京極(近江佐々木氏)高詮が出雲国守護となり,守護代として,近江尼子郷から出た尼子持久を守護代として,富田城に入れた。荘園の形態はこのころすでに失われたと思われるが,富田荘の名称は以後も永く使用された。永享5年6月20日銘の「六角堂頂法寺鐘銘」に「雲州路能義郡富田荘」(扶桑鐘銘集1/荘園志料),富田城山麓の岩倉寺所蔵の応永19年孟夏(4月)日付の「岩倉寺再興勧進帳」(岩倉寺文書/大日料7-17)には「雲州富田庄」とみえる。応仁2年には,富田城の尼子氏を攻めた反京極方の安来【やすぎ】荘一帯(安来市)に勢力をもつ松田氏に関する文書にも「富田庄内堺村」とある(佐々木文書)。戦国期には尼子氏は山陰・山陽8か国の守護と称して強大な力をもった大名となるが,永正年間になって周防の大内義興と対立,次いで毛利元就とも対立するに及んで富田城を中心にたびたび合戦が行われた。尼子経久の代に月山【がつさん】麓の富田城下は町並みがそろい,城下町も形成されていった(広瀬町史)。天文12年,大内氏が城下に乱入,次いで永禄9年11月,毛利氏の乱入によって軍門に下った尼子義久は,遂に富田城を開城して周防【すおう】に去った。山中鹿介らは尼子再興のため京に向かった。永禄12年,尼子氏の残党が再び富田城奪還を図ったが失敗し,以後富田城は完全に毛利氏の一支城となる。永禄12年12月19日付の「毛利元就・輝元連署状」(毛利文書/旧県史8)では毛利元秋が在番し,「雲州之内富田庄七百貫」などを元就が元秋に宛て行った。天正19年3月13日,豊臣秀吉は吉川広家に富田城を与え(毛利家文書/大日古1),慶長5年9月の関ケ原の戦いののち,堀尾吉晴が出雲に入り,富田を居城としたが,同16年には松江に移って城下はさびれていった。富田の地名は,この頃からみえなくなり,寛文年間からは広瀬と名が変わる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7412965
最終更新日:2009-03-01




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